できる人よりも、できた人に

 乳幼児から小児へ………小児から大人へと、段階を踏んで人間は心身ともに成長していく。
 未完成で分別のない人間が、教育によって礼儀を身につけ、知識を増やしながら成人し、社会人としての作法などを覚えていく。
 そして、複雑な社会構造の中で……それぞれの職場で……家庭で、自分の才能を充分に発揮できるか否かは、本人の心がけしだいである。
 努力すればするほど、それは報いられる筈である。
 才能が、ある一定のレベルを越えると、人々はその人を「できる人」と賞賛する。
 だが、その人の人格は別問題だ。
 人格というものは、長い年月を経て形成され完成するものである。
 「三つ子の魂、百までも」という諺(ことわざ)があるが、満三才までに九割の性格基盤が作られるという。
 残りの一割は、成長過程で本人の努力によって修正されていく。
 ”根明(ねあか)“、”根暗(ねくら)“などと云う奇妙な時代語がある。
 この言葉の意味を考えると、性格が先天的に決まっているような印象があってよろしくない。
 「根あか」も「根くら」も、育った家庭や学校などでの教育を通して、次第に出来上がった性格の傾向───つまり、外向性か内向性かを示すに過ぎないものであろう。
 しかも、その傾向は社会環境の中で、自ら少しずつ改革することが出来るものである。
 それよりも基本的に重要なことは、社会の中にあって、いかに周囲の人々に敬愛されるような人間であるか───が問題である。
 ”気配り“、”心遣い“のある性格を持っているか、真に人の悲しみが理解できる人間でありうるか………。
 つまり、「できた人」として行動していけるかが大切だと思うのです。
 この殺伐(さつばつ)とした世相を思う時、肝要なことは、才能がある「できる人」である前に、人と喜怒哀楽が分かち合える「できた人」であることの貴重さをシミジミと感ずるのである。
 そして、一人一人が「できた人」になれるよう、自己改革を目指したいと念願するのである。