縁起の話

 仏教の根本思想の中には、インド古来からあるもの……釈尊によって明らかにされたものの二種があります。
 前者の代表的なものが、本紙第三十五号で紹介した「輪廻の思想」であり、後者の代表的なものが、ここで解説しようしする「縁起の教え」であります。
 日本語の中には、仏教に由来した言葉が数多くありますが、この「縁起=えんぎ」も、そのうちの一つと云えます。
 例えば、“夜に爪を切ると縁起が悪い”と云います。
 また、最近の人は下駄(げた)なんて履かないが、“下駄の鼻緒が切れると縁起が悪い”と言っていた。
 これらは、縁起をかついだ言葉である。
 だけども、実を言えば、「縁起をかつぐ」の縁起と、本来の仏教で教える「縁起」とでは、チョット意味が違ってくるのです。
 かつぐ方の「縁起」は、吉凶の前兆の意味で、仏教本来の「縁起」は、関係性とでも云うべき、非常に高度な哲学的なものである。
 では、釈尊が説かれた「縁起の教え」とは、一体どんなものなのでしょうか。
 釈尊は、縁起の教えを「永遠の理法」と呼んで、釈尊の教えの根本であることを断言されている。
 つまり………、
 『縁起を見る者は、われを見る。
 われを見る者は、縁起を見る』
 しだかって、仏教が分かるためには、ぜひとも「縁起」を理解しておかねばならないのである。
 さて、縁起とは、文字通り「縁(よ)りて起こる」ことである。
 この世の一切の事物がすべて、他のモノに縁りて起きている───。
 この世のすべての現象は、他のモノに依存して起きていることを言ったものである。
 逆に云えば、単体・単独・一つだけで存在しているモノは何一つとしてない……!
 必ず、他の事物に寄りかかって存在しているワケである。
 縁起とは、「相互依存関係」と言い換えることが出来るようです。
 そして、その相互依存関係には、次の三つの関係があると云います。

論理的相互依存関係
 例えば、ここに体重七○`の人がいるとしよう。
 その人の横に八○`の人がいれば、彼はその人と比べて軽量である。
 でも、五○`の人と比べると、彼は重い人間になる。
 重い・軽いは、すべて他のモノと比較して言えることである。
 この世のなかに、絶対的に重いモノも、絶対的に軽いモノもないのである。
 すべてが、相対的である───ということ………。
 にも係わらず、私たちは、“出来る子・出来ない子”、“有能な社員・無能な社員”といったふうに、人間を差別して見てしまう。
 “できる・できない”、“有能・無能”といった評価は相対的なものであり、その人が別の環境に置かれたなら、今とは別の人間になったはずなのに、そんな事は忘れている。
 人間を固定的、実体的に見てしまっている。
 それがいけない───と、仏教は教えているのである。
 『すべては、相対的なものだ』というのが、縁起の教えである。
   {空間的相互依存関係}
 太陽が育てた草を、草食動物が食べて大きくなり、その草食動物を肉食動物が捕食し、その肉食動物が死ねば、死体をバクテリアが大地に栄養分として還元する。
 これが食物連鎖と呼ばれるものであり、縁起に他ならない。
 自然は、このようにモチツモタレツになっている。
 この縁起の関係の中に、カドミウムや水銀などが紛れ込むと、その影響はきっとあらわれてくる───と仏教では教えている。
 西洋の科学はその事に気付かず、水銀などは海に流せば消えてなくなると錯覚していた。
 二酸化炭素やフロンガス、森林伐採などもまた然りである。
 彼らは今頃になって、やっと仏教の縁起の構造に気付いたしだいである。
   {時間的相互依存関係}
 これは、一言で云えば、因果の法則に他ならない。
 あらゆる現象には、それを引き起こした原因がある───というのがそれである。
 すべての事象を、原因と結果の関係で捉えるのは、易しいようでいて難しいものである。
 自分に反抗的な部下を見て、その原因が自分にあることを悟れる人は多くない。
 自分には原因などない───思ってしまうのだ。
 でも、原因のない結果はないのだから、必ず自分にも原因があるのだ………と教えるのが縁起である。
 縁起は、仏教の根本思想である。
 その意味は難解であるが、常に事物・事象を縁起的に見ていると、そのうちに分かるようになってくる。
 そして、それが分かるようになるのが仏教の修行と思うのである。