死者すなわち仏ではない

 人が死ねば、「ホトケさんになった」と言います。
 テレビの刑事ドラマなどで、「ホトケはどこだ」とか「ホトケの身元は割れたたのか」といったセリフが出てきます。
 つまり、仏(ほとけ)と死者が同じものとして、今や一般に認識されている訳です。
 これには相当長い歴史があり、もはや生活実感になっています。
 何故、こんなことになったのでしょうか。
 今、ほとんどの葬儀では、おマンダラ(祭壇)と遺体が同じところに安置されています。
 そして、これが普通、正式だと思っています。
 ところが、チョット田舎の方へ行きますと、遺体は正面ではなく横の方へ安置している所があります。
 僧侶は、ちょっとした儀式を遺体の前でするだけで、後は正面を向いて拝んでいます。
 葬儀屋さんの方も心得ていて、祭壇と遺体(お棺)の安置する所[正面か横か]ちゃんと聞いてきます。
 前述したように、御本尊も遺体も同じ正面に安置するようになって、仏に対する誤解を生んでいると思うのです。
 住宅事情もあるのですが、出来れば御本尊と遺体とは、正面と横とに分けて祀ることを望みます。
 ところで、皆さん方が焼香する時、正面に遺影(白木の位牌)があるので、“ああ、とうとう××さんも仏になられたのだなあ”と思い、その亡き人に向かって焼香していると思いがちです。
 ───これが間違い。
 もし、その人が死んですぐに仏になっているのなら、その人はすでに偉大なものに完成していることになり、送る儀式も満中陰(まんちゅういん)も、一周忌も三回忌も必要ないはずです。
 亡くなって仏になったのであるなら、そういう事をする必要は、理屈の上から言ってもない事になります。
 でも、現実には葬儀もしますし、満中陰(四十九日忌)もします。
 一周忌、三回忌、七回忌………と追善を営みます。
 それは、一足飛びには仏に成れない(成仏しない)ので、一つ一つ段階を追って、一歩ずつ近づいていくための手続きが、葬儀や満中陰であり、一周忌や三回忌、七回忌と言うわけです。
 死んでからも、“何とか仏に近づけるように”と、僧侶も手伝わせてもらうし、また皆
さんにも拝んでもらうということでしょう。
 焼香というのは、辺りを浄めるなどの意味もありますが、拝んでいる対象は亡き人ではないのです。
 葬儀や追善の場合、その亡き人を何とかしてくれる“大きな力”に祈っているのです。
 「どうか、この亡き人を正しくお導き下さい」
と拝んでいるのです。
 そういう意味で、葬式の時には、お棺を横に安置する───と述べたのです。
 そういう雰囲気で、葬儀が行われるようになれば、もう少し仏に対するイメージも正しい方に変わってくると思います。