供養すれば功徳がある───と云う。 「供養」つまり施しは、布施行である。 布施行は、菩薩行としての六波羅蜜の一つである。 しかし、法華経への信心がない人から法華経を信ずる者への供養は、その意義が成立しないという考え方があります。 一般には、法華経の信者でない者から、法華僧への供養は、僧が受け取りません。 また、法華僧でない僧へは、法華経の信者から供養することはありません。 これが一般に言われる「不受不施」です。 供養によって与えられる功徳を固定して考えると、この供養にはコレコレの功徳がある───といった公式ができます。 A(供養)=B(功徳) つまり、法華信者の供養と、法華不信者の供養も、もし僧が供養として受け取れば、与えられる功徳は同じであると見なければならない。 信じてもいないのに、法華経の功徳を不信者に与えるのは避けるべきだ……。 ……だから、“そんな義の立たない供養は受けてはならない”という事で、不受が云われるのである。 法華僧の勤めは、法華経を信じない者を、その信仰に入らせることにある。 その為に、折伏(しゃくぶく)を行って釈尊の本意を説き、法華経に気づかせることだ。 もし、法華経不信・未信の者から供養を受けたとなると、その折伏の勢いが衰える。 供養を受け取ると、つい人情から手心を加えてしまうのが人間である。 法華経への信仰を勧めるという宗教行為が、いい加減になってしまう。 それを戒めているのが、法華不信・未信の者から、法華僧は供養を受けてはならぬ───の不受の戒と言えよう。 もちろん、法華経への入信を果たし、信者となれば何の障害もなく、その供養は受けられるのであり、それが理想の供養の形なのである。 そこには、仏さまからの功徳がチャンと与えられてくるのであって、これを真の正法供養と言うのです。 僧の側から見れば、このように供養を受ける事と、折伏活動は密接な関連があるのです。 つまり、折伏をしないのであれば、不受の考え方も出てこない関係にあります。 Aという大会社が、Bという会社に、 「お前んとこは、経営が苦しそうだな。 一億円をやるから、自由に使え」 と差し出したとする。 この場合、 「へー、おおきに」 と喜んで受け取れるかどうか………。 そこに、正しい義が成立しない限り、無条件無理由に受けるわけにはいかない。 供養する側、供養を受ける側───その心の内が一致してはじめて「真の供養」が成り立つように、法華経を信ずる者もこの点に留意しなければなりません。 |