宗祖の法華経観 日蓮聖人は、すべてのお経を、釈尊が実際に語られた真実の言葉として捉えられたのです。 それらお経の中に流れている釈尊の本意を探り、その上で、もっとも上位に位置するお経はどれか───経王とは何かを考えられて、法華経を最勝最高の経典として授かる方法を採っています。 『世間をみるに、我も我もと言えども、国主はただ一人なり。 一国に、国王が二人いれば、その国は穏やかではすまない。 また、家の中に二人の主人があれば、その家にはモメ事が多く、家は崩壊する。 お経についても同じことが言える。 どの経典が主であるにせよ、ただ一経こそ、すべての経典の大王であり、頂点に立つお経があるはずである』 と、その著書「報恩抄(ほうおんじょう)」に述べられています。 これは、すべてのお経の大王の位置づけを志向したものと考えられています。 その結論として、 『世界の中心に帝釈天(たいしゃくてん)がいるように、 神々の王の頭上に宝珠(ほうじゅ)のあるがごとく、 空天の上に月がやどるがごとく、 諸仏に勝れた人相の印しがあるがごとく、 この法華経は、あらゆるお経の頂上の宝珠なり』 と断言し、「法華経は諸経の大王」と見なしたのでした。 このようなお経の位置づけは、日本で初めて行われたものでなく、すでに中国において確立していたやり方でありました。 中国においては、多くの経典が無作為にインドから伝来しました。 釈尊が説かれた順番通りに、経典が入ってきたわけではないのです。 中国の僧たちは、沢山の経典をどのように受けとめ、仏教の根本をどこに置いたらいいか大変苦労しました。 そこで、経典に説かれる思想内容や説かれた時代を分析し、学問と宗教体験を重ねた上で、自らの立場を表明したのです。 これを【教相判釈(きょうそうはんじゃく)】と言います。 日蓮聖人が、長い間求めていた「諸経の王」が、ついに見つかった………。 では、法華経が説く教えとは何か。 |