人間の生きがい

 統計では、日本の仏教信者数は、八千万人以上いることになっている。
 都市部にも農村部にも沢山のお寺があり、道端にはお地蔵さんが祀られ、墓地は塔婆が立ち並んでいる。
 人が亡くなった時の儀式は、圧倒的に仏式が多い。
 先祖を持つ家は、仏壇を置くのが常識とさえなっている。
 そうした環境の中にいながら、生活の中で何か行き詰まった時〜方向を見失った時〜迷いの出た時───素直に仏さま(御本尊)の前で反省し、祈りを捧げ、仏教の教えに照らして、それらを解決しようとする人となると、果たしてどれくらいいるのだろう。
 残念ながら、私たち日本人は、生きるための宗教として、仏教を誇れるとは義理にも言えそうにない。
 現代を生きる人間が、常に抱いているモヤモヤしているもの………。
 何とも言えぬ虚しさや、不安定で頼りない……いつも何かに追われているような苛立(いらだ)たしさと孤独感………。
 “時代のカガミ”と云われる昨今の青少年の動向は、その意味において、今の大人の生き方に対し、厳しく問題点を突き付けているように思える。
 因縁(いんねん)・因果(いんが)という言葉がある。
 これは、仏教の基礎的な教えで、[物事すべて、ある原因から出発して、多くの過程を経て、結果に至る]というものである。
 その結果が、次の原因となり、縁となって、また別の結果を生む───という繰り返しの連続であるという教えである。
 だからこそ、今日の善行や努力が、一歩進んだ明日につながると云う。
 一粒の種をまく。
 原因がつくられた。
 土の条件・水分の多少・日光の量・温度・肥料(養分)などの縁が、その種を発芽させ成長させていく。
 やがて花が咲き、実がなるという結果をもたらす。
 むろん、その間に強い風や鳥、虫などにやられて消えてしまう縁に出会うこともある。
 逆に、風や鳥、虫が交配してくれて、実を結ぶこともある。
 すべてが縁である。
 結果として出来た実は、すぐに次の原因となる。
 原因───縁───結果は、連綿として繰り返されていく。
 これらの、どの縁一つをとってみても、虚しいというものはない。
 今は、何日の何時何分───という時計が増えてきた。
 時間の感覚や、継続している時間の中での───「今」という感覚が薄い。
 『それが現代なのだ』と言う人もいる。
 返済できる確かな見通しもないのに、「今コレが欲しい」と借金してしまう。
 何でもクレジットで買えるように仕組まれていて、いつも返済金を作るために苦しんでいる。
 借金で人生を狂わせ、果ては犯罪に走り、死を選ぶ人も珍しくない時代である。
 因縁・因果の法則を自覚しない結果の例には、事欠かない。
 釈尊は───、
 “人間、独りでは生きられない。
 お互いが育て合う中でこそ成長する”
ことを教えられている。
 みんなが一つの連帯の中で生きていくことを説き、そのモデルしての教団を指導された。
 目的を同じくし、力を合わせて生きる集団は、仲良し会ではない。
 その中には、厳とした秩序があり、ルールが確立していなければならない。
 「自分を中心に世界が動いているのだ」と言わんばかりの人が多いという。
 人間の力は偉大であり、何でも出来るんだ───と思い上りながら、自分がうまくいかないのは、他人の行為が悪く間違ってるからだ────という人間不信に陥っている。
 その点で、幼児以下の身勝手な自己中心的な大人が増えている。
 春分・秋分を、お彼岸の中日という。
 お彼岸という言葉は知っていても、それが釈尊の教えた[迷いのこの世を出発して、完成の未来に向けて進む]、その完成の未来という目的地が“彼岸”だと理解している人は、意外と少ない。
 大自然の法則や秩序から、人間社会のソレに至るまで、大事なことを見失ってタダ騒がしく、それでいて空虚で人間不在のような時代を生きる私たちは、長い歴史の中を多くの国々で生き続けてきた確かな思想、正しい宗教に指針を求めたいと思う。
 何事も、求めなければ自分のモノにはならない。
 一度しかない人生である。
 自分の力が・自分の存在が、他の人の支えになり、喜びになり、励ましになっていると自覚できる時、生きているという喜びが湧いてくるものである。
 それが、人間の生きがいというものであろう。
 仏教は、そうなる自分を創ることを教えているのである。