教義とは 今回から、本宗教義の輪郭を申し上げたいと思います。 ここに立派な木材があるとします。 そして、そこに腕の上手な大工がいると仮定しましょう。 立派な材料があり、上手な棟梁(とうりょう)がその腕を奮えば、どんなものが出来るでしょうか。 その結果は、立派な建築物が出現するはずです。 教義も同じようなことが言えます。 釈迦牟尼仏が説かれた法華経という仏教の脊髄(せきずい)の経典が、立派な材料だとすると───、 日蓮聖人が、立派な大工なのです。 それによって、立派な教義という建築物が出来上がったのです。 この教義・建築物は、私たちの信心修行の道しるべとなるべきものです。 ですから、この道しるべ……いや、宗旨には名前がなければなりません。 この名前は、例えて言えば立て札のようなものです。 人が旅をして道を行く場合、岐路にさしかかったとします。 周りに民家もなく、人影もない。 どの道を行けば、自分の目的地に間違わずに到達することが出来るだろうか。 そこに立て札があって、右はどこ、左はどことハッキリ書いてあれば、迷わず進んで行ける。 でも、その立て札に、極楽の方へ地獄行きと書いてあり、地獄の方へ極楽行きと書いてあったら………、 それを信じて進んで行けば、とんでもない目に遇わなければならない。 だから、立て札(教義)は何でもイイという訳にはいかない。 宗旨の名前は、その教義を端的に表わしたものと言え、ゆえに大切であります。 今ここに、何百人という人がいるとします。 当然、皆それぞれ名前が違う。 たまに同姓同名があるが、それは別として………。 その中の横山という人を、小山とでも呼んだらどうなるだろうか。 よって、教義の上には、まず宗旨の名前が大切だと考えます。 だから、本宗の名は言うまでもなく、妙法蓮華経宗と言いたいのです。 なぜなら、妙法蓮華経というお経の精神によって立てられているからです。 つまり、日蓮聖人の宗旨は、皆、妙法蓮華経宗と言えるのです。 では何故、その名を使わず不受不施日蓮講門宗と呼んでいるのか、次回にお話を続けましょう。 |