正義の叫び 5

 不受不施日蓮講門宗(昔は、不受不施日蓮講門派)の名称は、どのようにしてつけられたのか………。
 それは、他の妙法蓮華経宗(法華宗)と区別をつけるためである。
 「日蓮」は開祖の聖人に約し、「不受不施」は主義に約し、「講門」は主義の祖述の日講門流の呼称であります。
 将来は法華宗は皆一つになり、日本仏教も皆、法華宗に統一されるのが理想と考えます。
 このことを、日蓮聖人は『一天四海皆帰妙法=いってんしかいかいきみょうほう』と、その著書の中に大抱負を述べられているのです。
 法華宗が統一され、日本仏教が一丸となるそれまでは仕方がないから、他の教団と区別をつける必要から、この名をつけているのです。
 @不受不施の話
 太閤秀吉の時代に、京都東山の妙法院(現=天台宗)で大仏千僧供養会(〜くようえ)を催すことになったのが事の始まり。
 秀吉は、天下を取って後は武器を捨て、精神を以て人民を治めようとした。
 その結果、全国に命令して刀や槍、女性のかんざし等に至るまで、金気のものは全部自分のところに収めよ。
 特に、武器は武器は人を多く殺した罪があるから、その罪障消滅のために必ず持参せよ───。
 かく自分が天下を平定した以上は、もう刀も槍も持つ必要がない。
 もし、乱暴を働く者があった時は、予自らが成敗する───と令して、諸国から金属類を集め、これを一つに鋳て大仏を作った。
 そして、その大仏の前で先祖菩提のために千僧供養をすることになったのである。
 これは、民心緩和策とみてよい………。
 ともかく、この千僧供養は二○年続いたのであった。
 最後の方では、秀吉が死んで家康がこれを受け継ぎ、慶長十九年(一六一四)まで行われた。
 その供養には、天台・真言・禅・浄土などの各宗から一○○名ずつ出仕した。
 我が法華宗としては、祖師日蓮聖人の彼の四箇格言〔念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊〕を絶叫し、他宗無功徳を喝破してきた関係上、全国の各宗を向こうに回して戦いこそすれ、これらと共に呉越同舟、一餐の供養を受けるというようなオツな事は絶対に出来ないのであります。
 まして、あらゆる大小の法難に身命を堵して、苦戦奮闘され、その生涯を仏法のために戦い続けられた日蓮聖人に対して、義理でも出仕など出来ないなのです。
 然るに、当時の法華宗の僧侶は秀吉の威武に恐れをなし、腰を折って出仕してしまった。
 しかし、数多い学匠の中に、ただ一人その供養をキッパリ断り、厳として出仕を拒んだ青年僧がいたのである。
 京都妙覚寺の住職、日奥上人、当時三十一歳その人である。
 敢然と太閤秀吉を向こうに回し、この大仏供養が起こったのを幸いに、諸宗の邪義邪法を破って本宗の興隆をはかり、如来の正法を世に示さんとして、即日、天下を諌めるべく一大論文を著わして、秀吉にこれを献じたのであった。