便利になったら何か失ってる

 大安寺のこの周りも、私が子供の頃と比べて徐々に緑が少なくなってきているようだ。
 昔あった沼も埋められて田畑になったり、さらに造成されて、その上に建物が建ったりと、宅地や道路に変貌しつつある。
 また別の所でも、田畑が埋められ、つい最近まで空き地だった場所にも家が建ち並んでいる光景を見る。
 狭い国土に多くの人間が住んでいるのだから、仕方のないことかもしれないが、緑豊かであった日本が、この先どうなるのか考えさせられる。
 子供にとっては、草が伸びて荒れ放題になった空き地は、胸踊る空間であった。
 お寺の裏が山だったせいもあって、友だちとよく木切れや枝などを集めて小屋を作ったり、穴を掘ってみたり、泥だらけになりながら遊んだものである。
 今になれば冷汗の出るようなこともあったが、空き地や山は、子供たちには解放区のような場所であった。
 今は、そのような場所がなくなった代わりに、整地され遊具のそろった公園ができている。
 そのように管理された空間では、子供たちにとって空想を働かせる余地がないのか、子供の姿を見るには見ても少ないような気がする。
 思えば、文明の進歩というものは、空想の実現という形でなされてきた。
 考えようによっては、未知の部分を食い潰してきたとも言えようか。
 文化的な生活が、便利さや快適さを求めることで生まれるとするなら、私たちは、その代償として何を失いつつあるのだろう。
 一見ムダと思えるものや、未開の闇の部分にこそ、夢や空想が働き、心が踊るのだろう。
 便利になればなるほど、人は体を使わなくなってきた。
 汗を流して遊び、働くことをしなくなった時、果たしてどうなっているのだろうか。