お位牌の話

木の位牌になぜ合掌するのか

 まず位牌について説明しましょう。位牌はもとは儒教で用いたもの。後漢の頃から長さ10〜40センチの板に存命中の官位・姓名などを記して神霊に托させる習慣があったものを仏教が依用したもので、わが国へは禅宗に伴って伝わり江戸時代になって一般化したものといわれている。

 さて、法名や戒名を書いただけの板になぜ手を合わせるのだろうか。
 まず、手を合わせる側にいわせていただくなら、別に位牌は偶像崇拝でも何でもなく、理由もなく、ただ、“かたじけなさ”に合掌してしまうのである。

 これは理屈では説明できない。
 心の問題だからである。

 死んでしまったのだから、法事どころか墓まいりもしないという人がいる。
 確かに生きることばかり考えて、誰によって生かされてきたのか感謝する心がない人がいる。
 親に面倒をかけ、心配をかけながら大きくなったことを忘れ、今は亡き親に、一ヶ月にたったの一回の命日にも、親の名前を刻んだ、親の残していった心の名刺の前に好物を供えられぬというのは心が“かわいている”のではないだろうか。

 お位牌は亡き人の残していった心の名刺である…。
 そう度々お墓まいりに行けないのなら、お仏壇を置いて、先祖供養するのは、仏教というよりはむしろ、人間教だと思われないだろうか。

 物を言わぬ木のお位牌に、お菓子などを供えることのできる心豊かな持ち主なら、満員電車で立ちつくすご老人に席をゆずる位のことは簡単にできるはずである。
 お仏壇は、いってみれば、そんな家庭の情操教育の場であろう。
 ひとつ、心の水がかわかぬよう、日々心をひきしめてほしいものである。