おシャカさんは脇腹から生まれた?

 多くの仏伝文学(おシャカさんの伝記)によれば、おシャカさんは王妃マーヤーの脇腹から生まれたことになっています。
 そんなバカなことがあるものか、ただの伝説さと、ふつうの人なら思うでしょう。
 確かに、史実としてそうだったとは、とうてい考えられませんよね。

 しかし、仏伝文学を書いた人々   おシャカさんが亡くなって何百年かたった頃の人々   にとっては、おシャカさんが普通の生まれ方をしたはずがなかったと考えたのです。

 仏教では、この世とこの人生を苦しみに満ちたものだと考えます。
 苦しみにはさまざまありますが、その苦しみを簡単にまとめて、四苦八苦といいます。
 そのなかに生苦というのがあります。これはよく誤解されるのですが「生きること」とか「人生」とかが苦しみだ、というのではなくて、「生まれる時の苦しみ」ということです。

 いまなら帝王切開というやり方がありますが、昔の赤んぼうは、みんな産道を通ってこの世に生まれてきました。
 産道というのは大変狭いものでして、そこを無理やり押しわけて進むわけですから、その苦しみたるや、並大抵のことではないはずです。
 古代のインド人たちは、赤んぼうがあげるアノ「オギャー、オギャー」という産声を、あまりの苦しみに耐えかねて必死に泣き叫んでいる声だと考えました。
 わが国では、この産声を「くかな(苦哉)、くかな」と聞いた人もいました。

 ところで、仏教に限らず古代のインド人たちは、輪廻を信じていました。
 人間も含めて生き物は、悟って解脱するまで、生まれては死に、死んではまた何かに生まれかわるということを、いつまでも繰り返すというわけです。
 では、なにがクルクルと輪廻するのかというと、それは魂です。
 魂は不滅なのです。

 この魂は、特に、知覚とか記憶の場であると考えられていました。
 すると、ちょっと困ったことが起きます。
 というのは、もしそうだとすると、すべての生きものは前世の記憶をもっていてもよいことになるからです。

 しかし、私たちはそんなものをヒトカケラも持っていません。
 ということは、私たちは、どこかで前世の記憶を失った、ということになります。

 インド人によりますと、実は生苦によって記憶を失った、というのです。
 いろいろ理屈というものはあるもので、その理屈によりますと、私たちは、母親の胎内にいる時はしっかり前世のことを覚えていて、あの時はああすりゃよかった、あんなバカなことをしなけりゃよかった、無事生まれた暁には、こんどこそ絶対に悔いのない人生を送ろうなどと、えらく殊勝なことを考えているのだそうです。

 それが、いざ生まれる段になって、あの狭い産道を通っていく時、骨もバラバラになるのではというようなヒドイ苦しみ、つまり「生苦」をいやというほど味わって、ついに、今風のいいかたをすれば「記憶喪失」ということになりますか、前世の記憶も、胎内でのあの殊勝な心ばえも、きれいサッパリなくしてしまうというわけです。

 ところが、おシャカさんは前世の記憶をもっていたことになっています。
 このことをうまく説明するために、インドのお坊さんたちは、うまいことを思いつきました。

 それは、おシャカさんは産道からではなく、なんと脇腹からヒョッコリお生まれになったと…。
 こうしますと、おシャカさんは、あの凄まじい生苦を受けなかったことになりますから、したがって、前世の記憶を失うことがなかったという理屈になります。

 また、異常出産は、古今東西、偉大な人物にはつきものということになっていますから、おシャカさんにはまことに打って付けだということにもなります。
 脇腹からの出産というのは、こうして見ますと、まさに一石二鳥。
 なかなかうまいことを考えついたものではありませんか。