仏教はどうやって広まった?

 キリスト教などを見ていますと、宣教師がいて、世界中どんな所にでもドンドン入り込み、バリバリと教えを広めています。
 明治以来、キリスト教のこうしたやりかたに刺激を受けて、「布教師」を海外に派遣する仏教の宗派も出てきましたが、以前は必ずしもそのようなワケではありませんでした。

 仏教というのは「サトリ」「自覚」の宗教であり、その教えは、自覚した師から自覚した弟子へと伝えられるものだとされています。
 このことを「師資相承」といい、また「以心伝心」「以仏伝仏」といいます。

 ですから、仏教の場合は、どちらかというと教えを「広める」というよりも、教えを「求める」人たちによって「広まる」という傾向があります。
 中国に仏教が広まったのは、インドのお坊さんが、ソレ行けとばかり中国に乗り込んでいったからではありません。
 玄奘三蔵などが、西域に、インドに、教えを求め、勉強し、修行し、その成果を持ち帰ったからです。

 我が国でも、空海や最澄や道元など、おびただしい人々が、教えを求めて中国に渡りました。
 仏教では、教えを広めてやろうってな調子で頼まれもしないのにこちらからノコノコでかけていくということは、あまりありませんでした。

 訳経僧の鳩摩羅什も、唐招提寺の鑑真も、チベットにわたったカマラシーラたちも、皆、教えを求める側の招きに応じて、遠路はるばると旅をしたのです。
 今、我が国の仏教界の指導者層にいるかなりの人々が、もっと積極的に仏教を「広め」ようと発言し、行動しています。
 もちろん、それはそれで大変にケッコーなことで、ハタから余りとやかく言うべき筋合いのものではありません。
 何事によらず、汚職や詐欺や殺人やレイプとかいったものでもない限り、ドシドシともかくやってみる、というのも、なるほど一つの手であるには違いありません。

 しかし、考えてみれば、そういう動きがあること自体、「求められて広まる」ような魅力、パワーが、今の仏教には欠けていることの証拠だと、いえないでもありません。
 ワァワァいって外に出ていく前に、もうちょっと考えるべきことが、あるのではないでしょうか。