不受不施は、「不施思想」を発展させたものである。
「不施思想」というのは、釈尊の真意を説いた『唯一絶対の法華経を信じ、重んじる』ことがまず基にあり、その法華経を誹ることは釈尊を誹ることに通ずるとし、仏教徒なら法華経を誹ったりしないものだという立ち位置である。
信じぬ者・誹る者(これを謗法者という)に対して、その謗法を止めさせることが推奨されてくるのは自然であった。
教えの面における折伏(摂受)と「不施」という二つの態度を採り、法華経を広めていったのが日蓮聖人の採った方法である。
ところで、このような謗法者への「不施」が伝道手段の一つとして成立すれば、逆に、謗法者からの供養を拒否する「不受」の態度も現れなければならないことに気付く。
謗法を責め・その教えを折伏しながら、一方で、謗法者から供養を受けていたのでは矛盾してくるからだ。
あくまでも謗法を許さないのであれば、謗法者から供養を受けていたのではケジメが付かない。謗法者から供養を受けたのでは、謗法を暗に容認することになり、折伏の手も緩んでしまうと考えられた。
折伏と不施思想が強く結びつけば、「不受」が生まれてくる必然性がここにあったのである。
寺報第151号から転載