「不受」は、折伏と不施を徹底させて行けば必然的に生じてくるものだと言うことを前回述べてみた。
『法華経こそ真実の教えであり、法華経以外の経典は方便の教えである』というのは、不受不施思想の基本的性格であるが、これは単に日蓮宗だけが持つ特性ではない。
実は、仏教諸宗が有するものであって、諸宗はすべてこのような観点に立ち、自宗が他宗よりも優れていることを論じているのである。
自宗が他宗より、どこがどう優れているのかを論じたものを専門用語で「教相判釈」といい、略して教判という。華厳宗の五教判、天台宗の五時半、真言宗の顕密判などがそれにあたる。
これらの教判を強力に推し進めれば、当然にして不受不施思想にまで発展するのだ。
だが、これらの諸宗は「我が唯一なり」を強調せず、他宗他教と併存する道を選び、寛容的態度を採ったのである。
数ある経典のどれを採用するか?。
これは、経典の数だけ宗教ができることを意味する。
しかし、そこにあるのは『煩悩多き人間が経典を選ぶ』という思い上がりがある。日蓮聖人が採った経典選択はそれとは一線を画す。
それは、釈尊が我々に本当に授けたかった教え・経典は何か・どれか? という立場に立脚していた。
釈尊が私たちに与えたい経典は何かを探求し、その結果、法華経に行き当たったのである。
釈尊から与えられたものを素直に頂くのと、自分が選んだのだというのでは、同じ経典を手にしていても、その心持ちは全く異なる。
そういう主張である。
寺報第152号から転載