日蓮聖人以外の宗祖は「我が唯一なり」を強調せず、他宗他教と併存して寛容的態度を採ったと述べた。
しかし、法然上人の浄土宗は、日蓮聖人と同じ道を最初は歩いている。
浄土三部經をもって唯一最高のものとし、諸宗諸經と比べて自宗を「十即十生」「百即百生」の教えと優位付け、他宗を「千中無一」と非難した。
法然上人は『浄土三部經以外の諸經を捨てよ!』という選択集をもって主張し「浄土唯一が正法なり」の旗を高く掲げたのであった。
これは、不受不施思想に到達する共通の基盤に立ったものであると言えよう。
だが、この主張による風当たりは強く、当時の比叡山やその他の仏教諸宗からの迫害は極めて強いものがあり、かつ執拗であった。
根を上げた法然上人は、七箇条起請文を作り、この抑圧から逃れようとする。
つまり、当時の法然上人の弟子や信者である念仏者が、真言・天台の教えを非難し、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を誹っていたのを厳禁し、これに背く者は阿弥陀仏の救済から外れて地獄に堕ちると論じ、さらに破門にすると通告したのである。
これは迫害から逃れるために、天台・真言と妥協し、浄土三部經以外にも正法の存在を認めたことになる。
この通告によって、内面はともかく表面的には寛容となり修正されたのであった。
この態度は、不受不施的な考え方の放棄といえるだろう。
しかし、こうした妥協的態度は日蓮聖人が厳しく戒めるところである。
あくまでも法華経を主張し、迫害から逃れるための譲歩は許さなかった。
その結果、「大難四度、小難数知れず」という波乱の生涯を送ることになったのである。
寺報第153号から転載