日蓮聖人は、難儀を避けるための譲歩など決して許さなかった。
弟子信者もそれを受け継ぎ、弾圧迫害の中に信仰意識を高揚しつつ教団を発展させた。
その中で、不受不施制は教団の規則と信仰の純潔を守るために不可欠な行軌となっていく。
浄土宗と異なり、不受不施制は日蓮教団だからこそ生まれ、生育すべきものであったと言えよう。
これは、教団がもつ性格と言える。
不受不施制は中世の時代では何ら異議なく守られていた。
もちろん、時には混乱することもあったが、直ちに正されて教団統制の大網となっていった。
この不受不施制が、他の教団にはない特別な行軌として前面に押し出されるに至ったのが、強力な近世統一政権の樹立に端を発する。
この制度が政策と衝突することになったからである。
文禄四年(一五九五)、豊臣秀吉は京都の東山妙法院大仏の千僧供養会を営むにあたり、日蓮宗にも出仕を命じた。
しかし、法華未信・謗法者である秀吉が主催する法会に出席し、供養を受けることは不受不施の制度に照らして如何か…と、出仕の可否をめぐって、本満寺日重と妙覚寺日奥との間に意見が対立した。
秀吉の命令を契機として、「宗教と国家権力」の狭間に教団が立たされたのである。
千僧供養以前から教団は度々法難を受け、京都とその周辺では特に壊滅的な打撃を受けている。
これに危機感を抱いた長老たちが中心となって形成したのが関西学派。
昔からの学派を堅持したのが関東学派と呼ばれる。
不受不施を中心とした東西の論争は、共に教団の将来を憂いたものであったが、政治権力を傘にした関西学派は不受不施を圧して行く。
寺報第154号から転載