不受不施の話(5

秀吉と大仏

 秀吉は、5年かかって作らせた京都東山妙法院の大仏に対し、文禄四年九月より毎月、先祖供養菩提のためとして千僧供養を始めた。
 これは、信長の破仏政策の失敗を省みて、大仏供養の美名の下に、仏教諸宗の不和を調和し人心を収めようと計った政策だったと云う。
 千僧供養の招状(実は命令書)は同年九月十二日に京都の諸寺に到来した。
 大仏に出仕する各宗の順序は…、
一、天台 二、真言 三、禅 四、律 五、日蓮 六、浄土 七、遊行 八、一向
であったが、天台宗と真言宗が順序の先後を争って一悶着を生じたために二十二日から執行されるはずが二十五日まで延期されたのであった。
 京都法華宗十六本山は、右の命令に接して大いに慌て、いかに返答すべきかの問題について諸寺と評定を凝らしたが、いっこうに決定せず、ついに九月二十一日に最後の評議が本国寺で開かれた。
 その時の顛末を京都妙覚寺の貫首日奥上人が、その著書「宗議制法論」に記している。

寺報第155号から転載