不受不施の話(6

秀吉と大仏2

 秀吉の千僧供養出仕の命に際し、京都法華宗十六本山が最後の評議を本国寺で開いた。
 日奥師はその時の模様をその著書「宗議制法論」に記している。
 私が到着した時にはすでに日禎らは奥の座で会合していたらしく、客殿に出られて、私に向かって言った。
 「今度の大仏出仕の件は、宗義としては応じられないが、今は秀吉の機嫌が悪い時であり、不受不施の趣を述べては諸寺を潰されるような事にもなりかねない。
 それゆえ一度は命令に従って出仕し、翌日より公儀を経て宗旨の制法を立て、出仕をお断りしてはどうかと、意見がまとまった。」
 私(日奥)は、これに対し、
 「そのご意見はもっともではあるが…中略…宗祖(日蓮)の時から堅く立ててきた制法を一度でも破れば、いずれは宗義が立たなくなる。
…中略…
 今ここでこの制法を唱え、出仕できぬ旨を申し出れば必ず免除して下さる。
 もし万一、大事に及んでも不受不施の宗義は痛むことはないではないか。」
 日禎は私とほぼ同じ意見のようであったが、他の者はただ黙っていた。
 日重一人がびっくりした様子であった。
 日乾は、師匠(日重)の倒惑にただ一言も口に出さなかった。
 日通、かるく会釈があったものの心中は日重と同じようであった。  この日の会議では、一度は出仕することになり次の日からは宗義を立って出仕をお断り申し上げることとなった。
 私(日奥)は、たとえ一度でも謗施を受ける事は賛成できぬ、と再三申し上げたが、同意見の者は一人もなく、速やかに席を立って帰った。
 日重は私を送って出られ、「今一度、考えなおしていただきたい」と申されたが、私を説得できなかった。

寺報第156号から転載