実は、足利時代にも千僧供養が催されたことがあった。
その時には、宗門あげて宗義の制法を申し立て、出仕を断った先例がある。
それ以来、将軍の交代時には、諸寺一致団結して不受不施の制法を申し上げ、あらかじめ免除を受けることが通例となっていたのである。
ところが、本国寺での評定では京都妙覚寺の日奥師を除いて皆一度は出仕することに決まった。
そして、一度出仕した後は翌日より制法を申し立てようと盟約しておきながら、慶長19年までの20年間出仕し続けたのである。
なぜ盟約を反故にするような事になったのか。
次のような説がある。
信長時代に安土城にて浄土宗と問答した時、法華宗(日蓮宗)の僧がごまかされて、勝負の決しないうちに負けと見放され、しかもその僧が威嚇されて一筆を書き、その結果宗門全体が萎縮した。
その為、老僧たちは皆臆病風に吹かれ、今度の大仏供養に宗旨の制法を主張するほどの勇気はなく、ただ宗門が大切なりという名の下に、主義も主張も捨て、事勿れ主義を採った…と。
もしそれが本当ならば、それは凡僧の一時の過ちとして同情するとしても、京都の諸寺に対して課しただけの千僧供養であったにもかかわらず、京都以外の他国の僧まで誘い出して謗法供養を受けさせたのは悪むべきことだと言える。
これを脱がれようとするものは守護所(今で言うと警察みたいなもの)に訴えられ、種々に悩まされたから、心の弱い者はついに出仕する。または還俗(僧をやめる)する者が多く出た。
堅固に制法を守る者は寺を捨てて遠国に避難する、山林に隠れる。
あるいは毒を飲んで病を発する、あるいは自害するという状態で、その悲惨さは語ることが出来ないほどであった。
寺報第157号から転載