不受不施の話(8

秀吉と大仏4

 前に述べた迫害は、時の政府から来たものではなく、また他宗から受けたものでもない。それは法華宗内で起きたこと。
 つまり自宗の僧侶の仕業であった。
 この大仏供養の始まった文禄四年は、今から約四百数十年前に当たる。

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 秀吉の時代は、宗教政策は信長のそれとは逆に、キリスト教を禁圧して仏教諸宗を保護し、諸山の復旧事業を助けて、人心を収めることを図った。
 特に法華宗(日蓮宗)に対しては、安土桃山時代の宗論の時、信長から受けた弾圧によって見る影もなく意気消沈していた法華宗の禁圧を解き、浄土宗に差し入れた詫び状も取り返してくれていた。
 法華宗もやっと生気を取り戻してきた矢先であった。
 折りも折り、かねてから秀吉が京都の東山に造営中であった方広寺の大仏殿が文禄四年(一五九四)九月に完工した。
 そこには奈良の大仏よりさらに高い、約19メートルという日本一の大仏が祀られてあったという。
 秀吉は、この大仏殿の落成を機として、祖先や亡き父母の追善供養のため、方広寺に京都内各宗の高僧千人を集めて、同年九月二十三日から毎月一回、盛大な大仏千僧供養会を催すことにしたのであった。
 文禄四年(一五九五)といえば、秀吉はほぼ国内を平定し、その野望は朝鮮に及び、内外に秀吉の武威が轟きわたって、なびかぬ者のいない黄金時代であった。
 だから、たとえ千僧供養会というものでなくとも、秀吉が催すものならば、「誰もが朝めし前のこと」と長老たちは思っていたのだが、
 「この供養に出仕(出席)することは、宗義に反する」
と激しい反対論が出て、出仕か不出仕か、宗内を二分する険しい成り行きとなったのである。

寺報第158号から転載