秀吉が催す千僧供養会に対し、京都の法華諸寺を二分する険しい成り行きに何故なったのか?。
法華宗は日蓮聖人以来、『不受不施』という規範があり、特にこの時代は純粋な信仰を守ろうとする不受不施の寺々が、かなり多かった。
中でも日奥はその矢面に立っていた。
「たとえ国主、秀吉の招請とはいえ、法華の信徒でもない秀吉のために先祖供養することは謗法であり、またその施しを受けることも謗法である。
この招請は何としても受けられない」
と突っ張った。
日昭、日乾ら若手の僧侶たちもこれを強く支持した。
これに対し、日重を中心とする長老たちは何とか日奥らを説得しようと試みる。
「これは招請とはいえ、命令である。
出仕を断って秀吉の怒りに触れたなら、安土宗論の二の舞になって今度こそ宗門は破滅することになる。
まして秀吉には、信長の弾圧によって、萎縮してしまった本宗を助けてくれた恩があるではないか。
仏法は、まず恩を知ることである。
国主の命に応じ、一日だけでも出仕しようではないか。
その次からは宗義制法を上申して、出仕ご免を請おう」と。
しかし日奥は、
「たとえ一身はもとより、一宗が破却の厄に遭おうとも立行の前にはぜひもない。
一度たりとも謗法を犯せば、未来永劫、地獄に落ちる大罪を犯すことになろう」
と一歩も譲らなかったのである。
※安土宗論とは、天正七年(一五七九)浄土宗は安土における法華宗の急発展を妬み、信長と共謀して法華宗を打倒するため、法華VS浄土の宗教的論争対決を画策し、法華宗を貶めた事件。
寺報第159号から転載