『国主である秀吉の要請とは云え、我が宗の信者でもない秀吉の為に回向の読経を捧げ、その礼として施しを受けることは、日蓮以来の不受不施義に背く大罪を犯す謗法である』と日奥は断じた。
不受不施義を守るために宗門一命を賭すことは日奥にとって当然のことであったのだ。
厳然たる態度で出仕を拒み続ける日奥に対して、ほとほと手を焼いた出仕派長老の日重であったが、なおも説得を続けたのである。
「日奥の言うことは正しい。
しかし、もう一歩踏み込んで考えてみよ。
死後、地獄に堕ちるとも、今の苦境を救い法華宗の命を繋ぐならば、これこそ不惜身命と申すもの。
大慈大悲の菩薩行と云うものではなかろうか」
と、百方条理を尽くして説得した。
がしかし日奥は何としても聴き容れず、ついに、その夜の本国寺の会議は物別れに終わってしまったのである。
会議の後、日奥に同調していた日乾はしつこく日重に説得され、とうとう出仕することを承諾してしまう。
文禄4年(一五九四)4月22日の夜のことであった。
さて、日奥はこの夜、京都妙覚寺に帰ると山内は騒然としていた。
今にも秀吉の軍勢が押し寄せて寺の僧侶はもとより、檀信徒まで一人残らず召し捕らえられるのではなかろうかと恐れおののいている最中であった。
つまり、秀吉の要請を拒否すれば権力による弾圧を受けるという見方が広まっていたと言えよう。
日奥は事態を察した。
総ての寺宝を檀家総代に預け、翌二十三日深夜、密かに寺を脱出し行方をくらませたのである。
時を同じくした再会議で、日奥ら不出仕派を除き、各山各寺とも一度この大仏供養会に出仕し、次からは不受不施の義を述べて、必ず辞退することを申し合わせたのであった。
しかし、その申し合わせを全くの反故にしてしまうのである。
寺報第161号から転載