寺を捨ててまで宗義を守り、千僧供養会への出仕を拒んだ日奥であったが、当の施主である秀吉は彼らしい太っ腹のところを見せてか、敢えて咎め立てようとしなかった。
「宗制上、そういうこともあるだろう」
と、むしろ日奥の意気壮んなことを賞していたようである。
「先きの秀吉の御時、日奥が大仏に出仕しないことを公儀に背く悪人のように訴える者が次々あったが少しも聞き入れられず。
結局は、私に道理をつけられ、法華宗は出仕せぬことこそ本義であろうと仰せられ、少しも御とがめがなかった。
徳善院(前田玄以)も、此の内情を知っていたからこそ、六年の間、私をかくまってくれた」と日奥が後に所見を述べている。
こう言うと、秀吉が日奥に好意を寄せていたように思われるが、秀吉には秀吉でまた別の深謀があったようである。
と云うのは、この出仕不出仕の法華宗内部の抗争が意外に大きく、京都を中心とする法華宗の布教活動がほとんど停滞するに至ったからである。
特に、関西方面では顕著であった。
さすがに秀吉がこれ見逃すはずがなく、少壮孤立の日奥一派を助け、実力のある京都内の諸大寺の長老・日重らと対立させつつ、つまるところ法華宗の力を削ごうとする 秀吉流の治国政策に他ならなかったとの見方がある。
だが、それはそれとして、秀吉に背いて寺を退去した日奥に対し、誰もが後難を恐れて宿を貸そうとしなかった。
あちらこちらに、足を向けてはみたものの「公儀違背の者には宿を貸すことは出来ぬ」と断られたり、長く宿を貸してもらえなかったのだ。
日奥にとって安住の地が無いというのはことのほか難儀であったに想像に難くない。
この身の置きどころのない日奥を、そっと蔭から面倒を見てくれたのは、実は他ならぬ秀吉だったのだ。
寺社奉行の前田玄以(徳善院)に命じ、彼の所領である丹波の小泉に六年も日奥を保護させたのである。
寺報第162号から転載