法華宗が既存宗派を押し退けて京都に布教の足掛かりを作るには大変苦労した。
他宗から邪魔者扱いにされ迫害も受けている。
更に、信長には手痛い弾圧を受けて勢力を弱め、立て直しに大変苦労した。
千僧供養の際、長老派が「二度とあの時のようなことは御免だ」と思うのも無理はない。
そのために宗制を曲げてまで秀吉の機嫌を損ねないよう取り計らった。
そこまでなら一時の過ちで済んだであろうが、問題は宗制であった不受不施義そのものを否定し始めたことにある。
王侯除外の不受不施という新義を創り「法華は権力に対しても不受不施を貫いて当たり前」と庶民さえ思っていたのに、それは違うと言い出したのだ。
「不受不施はまぎれもなく法華宗の宗制だが、我々にはそれを守り切るだけの度量がない」と言うべきだった。
故に「一度だけ出仕し、後は不受不施義を述べて出仕を免除してもらう」という約束は反故にされて当然であった。
「一度だけ出仕し~」は、目の前の出仕に賛同を得るための詭弁だったのだろうか?。
最初からそのつもりだったとしたら大した策略である。
『死後、地獄に堕ちるとも、今の苦境を救い法華宗の命を繋ぐならば、これこそ不惜身命と申すもの。
大慈大悲の菩薩行と云うものではなかろうか』
とは日奥を説得しようとした日重の言葉であるが、日重のその時の本意は一体何処にあったのだろうかと思う。
もともと不受不施義に関しては、それを純粋に高めた関東学派と多少ゆるやかな考えを持つ関西学派に二分することができる。
日蓮聖人以来、布教活動の中においていつも論争の的になっていた。
様々な迫害に遭って不受不施義が折れそうになったこともある。
しかし、弟子たちによって不受不施義は守られ、折れそうになった宗制も修正され純粋さを高めてきた。
その論争の火種が千僧供養を契機としてまた燃え始めた。
寺報第163号から転載