さて、本国寺での協議の場に戻ります。
本国寺会議において出席の中に一人の同意者もなく、大仏供養に出仕することになったので日奥は大いに憤慨した。
この上は、自分一人なりとも、宗旨の法理を上聞に達しよう として、文禄四年(1594)会議から三日後、法華宗の出仕当日九月二十五日、秀吉に進覧のため一巻の目安を徳善院(前田玄以)に差し出している。
この趣旨は、釈尊一代説教の真意を明らかにして執権の謗法の咎を示し、今現在にふさわしい本尊は法華本門の本尊に限ると論じ、
『時はまさに法華の代なり、国もまた法華の機なり。
しからば、天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。
仏法を助ける国主は、もっぱら法華経を崇むべし。
さすれば、天下泰平尊体安康ならむ』
というものであった。
この書状を呈上した夜中、日奥は京都妙覚寺を退去した。
そして、鶏冠井に滞在中、妙顕寺の貫主日紹より日奥のもとに使いが訪れている。
「大仏の謗法供養を脱がれるために、寺を出られたことは、有難き義である。
日紹も、今は寺を出ないが、私も同じ考えである。
妙顕寺が出仕の番にあたる時には、必ず私も寺を出よう」
と、申し遣わせていた。
さて、本国寺会議の折りに主裁者の地位にあったのは本満寺日重であった。
当時の世間の人々は、日重を大学匠だと信じていた。
出仕するか否かの事は、ひとえに日重の意見いかんによって決せられると思っていた。
その折り、日重は心中当惑臆病の有様であったといい、日奥が強いて諫めたのだが聞く耳を持たなかった と伝えられている。
寺報第164号から転載