不受不施の話(14

秀吉と大仏10

 日重の弟子日乾はこの出仕を迷惑に思っていた。
 檀家に向かって、
 「自分はたとえ一命を失うとも出仕しない」と言っていた。
 それはそうでしょう。
 日頃、檀家に向かって「不受不施」を説き、これを厳守することが法華宗、日蓮の弟子檀那である証と口を酸っぱくして言ってきたのだ。
 それがいざ、自分の頭上に火の粉が降りかかってきた途端、簡単に主義主張を曲げてしまうのは恥だと考えたのも当然です。
 しかし、師の日重は日乾を呼び付けて執拗に異見を加えて説得、半ば強引に出仕させてしまう。

 すると日乾、一度出仕してからは何と前と反対の挙動をとり出し、ひんぱんに妙顕寺の日紹に出仕を勧め始めたのである。
 日紹は、日奥に前約(次号を参照)をしたほどであるから、いろいろ遁れようとしたが、公儀から厳しく促されるし日乾からも強く勧め付けられるために、ついには根負けして出仕してしまった。
 他の者も初めは一度二度、一人二人は遁れ得たがこの有様を見て、なし崩し的に皆出仕するに至ってしまったのである。

 ゆえに日奥は、日重を『此の事件における首悪だ』と断じている。
 日乾は後に身延山に上るのであるが、不受不施禁制の幕開けである「身池対論(身延山対池上本門寺)」へのお膳立てが、この「大仏事件」で用意されていたのは因果なことである。

◇浄土宗からの難状◇

 法華宗が不受不施の法理を破って大仏千僧供養に出仕していることは当然ながら他宗もよく知っていた。
 この有様を見た浄土宗は、宗義上の質問である「難状」をもって法華宗の出仕順序を六番に下すべき旨を公儀に訴え出たのである。
 つまるところ、難状に答えられなければ「我が浄土宗を六番から五番に格上げし、法華宗を五番から六番に下げよ」というものであった。

寺報第165号から転載