浄土宗の難状が法華宗へ渡されたが、返答しなかったらしく、法華宗は第五番から六番に下げられてしまった。
これを聞いた日奥は直ぐに「返答七ヶ条」を書いて浄土宗難状の一々を破り、秀吉に上書している。
日奥三十一歳の時であった。
翌文禄五年(1595)7月、前代未聞の大地震が起こった。
また空より土を降らし天変地変が頻繁にあったという。
日奥は災難の根源を考えて一巻を選び、徳善院(寺社奉行、前田玄以)から秀吉に進達しようとした。
ところが、徳善院は、
「太閤は今、忙しくしているから、禁裏(宮中・天皇)へ奏聞した方がよかろう」
と助言したので、ひとまず小泉へ帰り、日蓮聖人の立正安国論と、その由来記を添えて徳善院より献上した。
即日、ご披露あって糾明の結果、諸宗へこの一巻に返答を差出すことの出来る法門(宗)があるか?、内命が下った。
しかし、諸寺より一言の返答もなかったという。
そこで徳善院に使いを立てられ、「諸宗と法門の御糾明あるべし」ということになったのだが…、徳善院は
「今は天下泰平なりといえども、太閤はその気遣い未だ止まず。
この義、ご糾明においては天下の騒動にあいなるべし。
まず、しばらくこのまま置かれて、しかるべく存ずる」と申し上げたため、そのままになってしまった。
さて、かく天変地変で世が物騒であると云うのでこの年(1595)慶長と年号が改められたが、その後3年たっても地震の災難は止まない。
そこで日奥はまた諫状を行った。
慶長3年(一五九七)3月28日付けである。
しかしこれもそのまま打ち捨て置かれた。
その後、天皇が病に伏されたのを聞き、10月13日、除悩延命表を選んで献上されている。
寺報第166号から転載