不受不施の話(16

秀吉と大仏12

 慶長3年10月13日、病に伏された天皇に除悩延命表を献上した日奥であったが、度重なる諫状に自他宗共に妬みが走って中傷が起こったらしい。
 徳善院(寺社奉行・前田玄以)に保護されているとはいえ、小泉にあっても種々迫害が加えられたという。
 いつの時代も「出る杭は打たれる」のだろう。
 なお、秀吉はこれより前の慶長3年8月8日、伏見城で没している。
 千僧供養の施主・秀吉が亡くなったのでこの千僧供養も自然消滅かと思いきや、徳川家康に後事を託していた。

 事実、千僧供養会は家康が受け継いで執行している。
 出仕派の長老があれこれ策を巡らし、不出仕を続ける日奥と家康を対峙させることになるのだが、それはもう少し後のことである。

 日奥は三度まで諫状したが、ほとんど無視されてしまった。
 「三度諫めて用いられずば身を退くべし」。
 すでに仏子としての責任を果たしたからこの上は先聖の例に任せ、世捨て人となる覚悟で、慶長4年(1599)3月、佐渡島へ渡り、宗祖日蓮聖人が難儀された聖地を参拝した。
 佐渡島に詣でた日奥は、塚原三昧堂に三週間こもっている。
 日奥が佐渡島の聖地を参拝中、京都の信者が尽力して、嵯峨の地・現在の京都市右京区に慶長4年8月、法華の寺を建立した。
 この寺は、亡き秀吉の意向にもとづいて、秀頼と淀君(淀殿)の発願によるものであったという。
 建立されたこの寺の開堂供養の導師に、信者たちは日奥を願った。
 しかし、その寺は真言宗大覚寺の領内であったため、京都中の寺々はいろいろ策動して日奥の出席を阻止しようとした。
 しかし、知ってか知らずか、日奥はその寺の開堂供養に行くことなく、岡山蓮昌寺の開堂供養に臨んでいる。

寺報第167号から転載