日奥と長老派の紛争が関東の法華諸寺まで聞こえない筈もなく…。
日奥が妙覚寺を退寺し、前田玄以の保護を受け、小泉に隠遁して間もない頃と思われる慶長2年(1596)の春、東京池上本門寺第十二世仏乗院日惺が、わざわざ京都に出向いてきて両者の間を和解させようとしている。
法華宗が浄土宗からの難状を受け、返答しなかった為、出仕順序を五番から六番に格下げされた次の年のことであった。
日惺が京都に来たのは調停の形はしていたが、その内容は「大仏供養への出仕停止」を土台とした和解策であった。
そのため、日重らの長老たちを納得させることが出来ず、不調のまま関東への帰路についている。
文禄4年(1594)から既に二回の出仕をしている勘定だから、最初に長老たちが言っていた、
「一度だけ出仕し、後に宗義制法を上申して出仕ご免を請おう」の約束は既に反故になっていた。
「後に上申して出仕ご免を請う」つもりなどハナからその気はなかったと思われる所以です。
関東の法華宗も、この出仕に不快感を持っていたことも想像に難くない。
日惺以外にも、秀次の母で秀吉の姉である瑞龍院(智子)も秀次と共に、日奥・日禎らと京都法華宗諸寺との間に立ってイロイロと和解工作を進めていたが、不発に終わっている。
いや、逆に溝を深めることになったようである。
※秀次事件
文禄2年(1593)に側室の淀君(淀殿)が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となる。
文禄4年、乱行を理由に秀次を廃嫡して高野山へ追放。
後に謀反の容疑で切腹を命じた。
実際に乱行があったかどうかは諸説があるが、実子・秀頼が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もある。
この事件が和解工作に影響した可能性は否定できない。
寺報第168号から転載