慶長3年(1599)11月、ついに京都法華宗の長老たちは、秀吉亡き後の実権者・内府の徳川家康に、京都法華宗門内の紛争収拾を訴え出るに至る。
しかも、その訴状は悪意に満ちていたものであった。
「妙覚寺の前住日奥と本圀寺の前住日禎の両名は、貴命に背いて大仏の千僧供養会に出仕せず。かつ、宗門内を紛糾せしめて、寺を出奔したことは不義の至り、阿曲の徒である。」と口を極めて罵り、さらに、
「わが門中諸寺のこの頃の荒廃、零落振りは目を蔽うばかりである。
これみな偏に日奥らに責任がある。
しかも日奥らは、太閤殿下の亡くなるのを待って帰洛を計り、わが宗門の衰えに乗じて、更に攪乱しようと企てている。
そのことをよく念じて、再び彼らの魔手にかかることなく、願わくば過去の過ちを正し、貴命に応じて出仕せんことを願う。」というものであった。
日奥も黙っている訳がなく、この訴状に対し陳状をもって痛烈に反論した。
「この訴状は大たぶらかしで、一文一句、正義に当たることなし。
つまるところ、天命に尽きて吾と我が身の過ちを自ら書き出したのか!」と手厳しく論じている。
家康は、この両者の訴えを取り上げて大坂城に呼び寄せ、法華宗内の紛争の種子である受不施・不受不施両派を対決させ白黒を付けさせることにした。
表向きは…そうであった。
※対論
教義・宗義上の争いをその宗門の代表者が公の場で論争し決着を図ること。
評決は専門の学者・識者などがあたる。
争いの背景に政治(的な思惑)が絡んでいると純粋な宗教的論争にならないのは世の習いでもある。
寺報第170号から転載