死を隠蔽する

 死期が迫っている人の傍らに立つ時、いったい何を話したら良いのか分からなくなるという事を私たちはよく経験する。
 その虚しさは十分わかっていながら、ただ「必ずよくなるから頑張って」という言葉しか出てこない。
 死という最大の別れを目前にして、そのような言葉しか交わせないという事は、何とも悲しい事であり、そのような言葉でしか最後の交流が出来ないという事は、死を迎えようとしている人自身にとっても、何と寂しい事であろう。
 トルストイの『イワン・イリッチの死』の中で、イワン・イリッチは心の中で次のようにつぶやく。
 「嘘はもうたくさんだ。
 私が死ぬ事は、あんたたちも知っているし、私自身が知っているんだ。
 だから、せめて嘘をつくのはやめてくれ」と。
 しかし、彼にはそのような事を口にする勇気はなかった。
 死の切迫を回復可能な病気とすり替えて包み隠し、瀕死者の周囲に嘘を張りめぐらせる。
 間もなく死を迎えようとしている人に、心からの別れの言葉も感謝の言葉も言えない悲しさ。
 瀕死者自身もそれに調子を合わせ、お互いに心を閉ざしたまま去っていこうとする事の虚しさ。
 イワン・イリッチの死は、そうした死の迎え方を痛烈に皮肉っている。

 死の接近を病気とすり替える  。
 これは、現代人が死に対して採る特有のレトリック(修辞学)である。
 そして、このレトリックの上で人々は死を直視する事を回避し、瀕死者の周囲に虚言の共同体を作り上げる。
 P・アリエスは、死を前にした現代人のこのような態度を「倒立した死」と呼んだとか。
 現代は医療化の時代といわれる。
 かつては人間(生物)の正常で自然なプロセスであった妊娠・出産・老い・死を、今日かなりの範囲で医療の管轄下に取り込むようになった。
 とくに死については、現代では死亡者の9割が病院で息を引き取っているという。
 にもかかわらず一般病院の医療システムは、死に行く人々のためではなく、病気が治癒し元気になっていける人々のために専ら整備されている。
 そこではあたかも、死はあってはならないものであるかのように扱われる。

 病院に入ればまだ助かるかもしれないという薄い期待に応えるべく、医師側も例え一分一秒でも命を長らえさせる事が医療の役目という観点から、ひたすら延命医療とそのための技術開発に力を入れてきた。
 しかし、そうした近代医療の輝かしい成果の反面、私たちは今、真に人間らしい死に方を見失ったと言えるのではないだろうか。
 延命のためには患者に真実を伝えない方が是とされる風潮のもとでは、死に行く人自身も残された命を有意義に全うするという事は出来なくなる。
 最期の時にあたって「お世話になりました」とか「君と会えてよかった」という言葉を交わす事もできない。

 真実を伝えることは、たしかに残酷かもしれない。
 だからと言って真実を伝えないというのは、偽りの優しさに過ぎないのではないか。
 私たちの社会が専ら延命のための技術ばかりを追求し、人間らしい死を迎えるための叡知の開発を怠ってきた事に、思いを到らざるを得ない。
 かつての人々は「天国」とか「来世」の観念を持つ事によって、死に際し「次の世でまた会おう」「待っててくれ」といった挨拶を交わす事ができた。
 これもレトリックであるに違いない。
 しかし、それは死を隠蔽するレトリックではなく、人間らしい別れを可能にするためのレトリックであったのではないか。