供養の心と形

 追善供養とか法事と呼ばれる行事があります。
 誰々の3回忌とか7回忌を、○月○日に我が家で執り行うので、お越し下さい・・・ってな案内を頂き、万障を繰り合わせてお供え物や、ご霊前あるいは御供と書いた包みを持参する。
 お坊さんが来ていて、時刻が来るとお経上げが始まり、足がしびれるのをガマンしながら終わるのを待つ。
 そして、お墓参り・・・お墓から帰ると、会食の用意がしてあり、お坊さんから説教を聞いたり、しばらくの再会に親族親睦会が始まる。

 地方によって、多少の差異はあると思うが、まっこんな流れで法事が営まれる。
 最近は、会食を自宅ではなく、どこかの料亭へ行ったり、法事そのものも会場を借りて営む事が目に付くようになってきた。
 これも時代の流れなのだろう。
 いつも裏方で、お坊さんが説教をしても声が届かない所にいる奥さん方が、こういった会場では、もれなく聞く事ができるというメリットもある訳で、なまじ手を省き、楽をしてるとも言えない意味がある。

 塔婆やお供え物を抱えて墓地まで行く。
 霊園墓地の方もさまざまで、管理が行き届いている霊園もあれば、参ってくる人たちの自主性に任せている所もある。
 お供え物はお持ち帰り下さいとの立て看板が見えたり、水道や桶を完備してたり・・・管理、経営も大変そうである。
 反面、墓地を持てない人も増えており、既成の葬儀に疑問を抱く方々による散骨も定着してきたようである。
 しかし、どんな祀(まつ)り方になろうと、亡き肉親の冥福を祈る心がありさえすれば、形は変わろうとも、葬送・供養はこれからも続いていくと思う。
 ここでは、私が一般的に見る墓参に目を向け、その意味を探ってみようと考えてます。

墓参に持って行くもの
 お彼岸やお盆・年始には、お墓に参ります。
 もっとも、〃お盆休みは長期休暇〃というイメージがあって、お墓参り・先祖供養より海外旅行にいそしむ人たちが増えてますが。
 お墓参りしても、亡き人たちが喜んでいるのか分からないし、目の前の仕事・目の前の遊びが忙しい・・・というところかなぁ。
 余り、この話に深入りすると、死後の世界がどうたらこうたら、魂・霊がどうしたこうした、天国がぁ極楽がぁ地獄がぁ・・・に発展して本題から外れてしまうのでこの辺りでやめます。
 先祖・亡き人たちがどう思おうと良い、私自身が、亡き人の冥福を祈る気持ちをまず大切にし、お墓参りに持って行く5つの道具?について話を進めていきたいと思います。
 いえ、正確に言うと仏壇の中にも同じ物があるんですが、お分かりになります?

ローソク
 糸を束ねたコヨリの周囲に、脂肪酸とアルコールを混ぜて作った蝋(ろう)を柱状につけたものをローソクと言うそうな。
 お墓参りに持って行く事もあるが、なにせ屋外ですから意外と風も吹いていて、すぐに消えてしまう。
 大きさも様々で、10分程度で燃え尽きてしまうものから、何時間、何日と燃え続けるものまである。
 確か高野山だったと思うが、弘法大師空海時代から燃え続けている灯明がある。
 今までに1度、事故で消えたけど分灯から再び点火...実に1000年も燃えているのだ。
 同じ灯火でも、ここまでくれば恐れ入るしかないネ。
 結婚式に二人で点したでっかいローソク...消えかかっていません?
 仏壇にしても、法事の祭壇にしてもローソクに点火してお経を頂戴する。
 何のために火を点すのだろうか?

 要は、明かり取りに他ならない。
 今でこそ、電気照明器具という便利なものがあって、〃明るい〃・・・という事に何の有り難味も抱かないが、夜に一斉停電にでもなれば、明るい事がいかに素晴らしい事か実感できるだろう。
 もっとも、「私ゃ、押し入れの隅の真っ暗な所が大好きでぇ」という人は別ですが。
 暗黒の中に、一筋走る光明は、何にも代え難い。
 光は、あらゆる宗教で救いの力・善の意味で使われている。
 キリストの発する光、仏の体から出ている放射状の光・・・絵画や像にも象徴的に表わされている。

 ローソクのユラユラ揺れる暖かい光に愛着を懐いている人も多い。
 仏壇では、電灯が灯るようになっていて、ローソクでなくても明かり取りができるようになっている。
 これも文明の利器だろう。
 ローソクから火が出て、家を焼くこともあるから、安全対策上からも年寄りがいる家庭では電灯でも可である。
 明かり取りと同時に、温かさの提供をローソク・電灯が担っている。
 しかし、太陽が与えてくれる恵みに比べれば・・・そう、太陽の代用なのだと思う。

お茶湯
 これは、お茶あるいはお水を差し上げる事を意味します。
 お茶にしろ、お水にしろ、それは喉の渇きをいやしてもらうためだ。
 水がなくては、どんな生物も生きていけない。
 どんなに乾いた地上でも、水がゼロというところはない。
 もし、家に不幸があったら、枕元にやはり茶湯を捧げます。
 その時には、水ですネ。
 水をコップにいれて捧げます。
 なぜ、湯にしないのかと言うと、緊急事態だからなんです。
 死者=喉が乾いている、という図式があって、今すぐに取り敢えず喉を潤していただこうという心情ですネ。
 葬送を済ませ、斎場から帰ってきたら、お茶になります。
 やっぱり、締めはお茶・・・日本人ならお茶ですわ。

 お茶にしろ、水にしろ、それは私たちにも欠かせないものです。
 いつぞやの水不足は深刻で、水の有り難味を思い知らされた・・・はず。
 喉の渇きはおろか、掃除、洗濯、食器洗い、果ては料理に至るまで、生活になくてはならない酸化水素ですネ。
 墓石の頭から水をかけたり、戒名板を水で洗ったり・・・水は汚れを流す事でも使われます。
 持って行った水は、溢れる上からたっぷりと差し上げ、どこかに捨てたり、持って帰らないようにします。

お線香
 線状になったお香を線香と言う。
 当たり前すぎて面白くないが、このお線香は中国大陸で発明され禅僧が持ち帰ったと伝えられている。
 焼香は、香をつまんで三回捧げるのが普通である。
 香の歴史は古く、インドでも暑さしのぎに使われたという。
 香木を焚いた気高い香りは、一種のストレス発散にも役立ったらしい。
 栴檀とか白檀とかが有名で、本物は結構高価である。
 今風に使えば、芳香剤であろうか。
 トイレに○○○・・・なんて。
 最近は、匂い線香なる商品もあって、消費者には至れり尽くせりだ。
 安物の線香は、とても芳香剤という訳には行かず、あの匂いが嫌いだという人もいますネ。
 それで、匂いのない線香や煙の少ない線香が開発された。
 本来の意味から言えば、匂いのない線香はナンセンスで、まだ、自分が好きな匂い線香を焚いた方が良いような気がします。

 線香のもう一つの働きは、あの煙。
 邪を払う・・・悪鬼を払うという意味がある。
 でも、目に染みる事もあるネ。
 邪や悪鬼と共に、払われるのがオチかもしれない。
 線香に火を点け、その火を口でフッと消すのを嫌う事がある。
 手で扇いで消すか、サッと振って消すか、格好良く決めれれば文句ないが・・・。
 それと、束になった線香は、火を点けると、たいまつのように燃え盛る。
 どんなにしたって、これは消えない。
 早くバラして、みんなに手渡しましょう。
 お水もそうですが、お線香も、参った方一人一人の手で差し上げるのが良いでしょう。
 せっかくのお参りですから、皆で参ったんだという証を残しておきたいと思います。


 お彼岸、お盆ともなると霊園は花盛り。
 殺伐とした石塔が立ち並ぶ、平生は何気なく通り過ぎる小さな協同墓地も、この時ばかりは賑やかだ。
 もし、この世から花という花がなくなったら、どんなだろうか。
 なんとも殺風景な感じである。
 およそ、花が一輪もない世界なんて想像もできない。

 花は、仏の慈悲あるいは愛を象徴した供え物である。
 部屋の片隅に、そっと一輪...それだけで心が和むことがある。
 きれいな花を見て「きれいだな」と思える人の心の中には、きっと同じ花が咲いているんだろう。
 仏壇に、枯れ果てた花をいつまでも差し上げないように心がけたいと思います。
 これ、見た目も綺麗じゃないんですが、危ないんです。


 これは、要するに食べ物です。
 御飯、味噌汁・・・基本的に精進料理という事になるんでしょうけど、生前に好物だった物を差し上げる人は、心の優しい方でしょうネ。
 いくら好物だったと言っても、ステーキを供える方はいないと思いますが・・・。
 基本的に、お肉関係は好ましくありませんが、絶対にダメとは言えません。
 霊園によって、供えた物は、お参りが終わると持って帰らなければならない所もあります。
 また、子どもたちに好きな果物を持って帰らせる風習もあります。
 これは、先祖のご加護を子どもたちに・・・という意味があるようですネ。
 お米を供え、今年のお米の出来具合を報告するという農耕から出たものもあります。
 基本は、新鮮なものを短時間で・・・間違っても、カビが生えた供え物は、誰もいるとは言いません。

まとめ
 地域地区によって参り方も様々ですので、これが絶対のやり方だと思わないでネ。
 ただ、今まで何となくやってきた人がいましたら参考にしてみて下さい。
 無意味に形だけやるよりは、意味付けをして、それなりに納得しながらした方が良いのです。
 人間は、無意味な行為を無価値と判断する生き物ですからネ。

 時代と共に、やり方は変わって行くものです。
 でも、根本にあるものは、いつの時代でも変わらないと思います。
 これら5つのアイテムも、これから先どんなふうに形を変えて行くでしょうか。
 実は、6つめのアイテムがあるのです。
 これは、人間が人間である限り変わらないもので、前の5つを生み出した根っこの部分に当たります。
 それは、この演題の中にあります。