ギリシア神話に、シシュフォスなる男が登場する。 彼は、人間のうちで最も悪賢い男であった。 死の直前、彼は妻に命じた。 自分が死んでも葬儀をするな。 オレの死骸は、広場の真ん中に打ち捨てておけ。 ………妻は、その通りにした。 シシュフォスは、冥途にあって冥途の王であるハデスに願い出る。 “わたしの妻はヒドイ女だ。 私の葬儀をせず、死体を広場に打ち捨てている。 私は、妻を懲らしめたい。 妻に仕返しをするために、ハデスよ、私をもう一度地上に戻らせてくれ………“ 死者の王ハデスも、このシシュフォスの訴えに共感し、彼は許されて地上に帰ってくる。 もちろん、妻を懲らしめたりはしない。 死んだシシュフォスが、生き返るためについたウソであったのだ。 つまり、ハデスはペテンにかけられた訳である。 ハデスからの度重なる召喚命令を無視して、シシュフォスは生き続ける。 その結果───、 神々の王ゼウスは、シシュフォスを地獄に送り、そこで永遠の刑罰を負わせた。 地獄にあってシシュフォスは、巨大な岩石を山頂へ押し上げる仕事をやらされる。 しかし、彼が岩石を山頂へ運んだ瞬間、それは彼の手から滑りだして再びもとの場所まで転がり落ちる。 シシュフォスは山を下り、再び岩石を押し上げなければならない。 何度やっても同じことだ。 岩は山頂に押し上げられた瞬間、再び転がり落ちる。 シシュフォスは、その終わりのない仕事を繰り返さなければならない。 未来永劫にわたって………。 恐ろしい刑罰である。 そこには目的がない。 何のために、岩を山頂に運ぶのか………? ただ繰り返しているだけである。 何のためでもない───。 それが「輪廻」だ。 インドで考えられた輪廻は、まさにシシュフォスの神話である。 これがそうなら、インド人の考える輪廻転生は、ゾッとする世界である。 生まれ変わり、死に変わりして、私たちは生存を続ける。 別に、何の目的もない。 ただ、生まれては生き、老いては死んでいくだけだ。 そして、「死」は“エンド“ではない。 「死」によって、すべてが終わるのではなく、死んだ後に再び「生」がある。 六つの世界(六道)を私たちはグルグルと回っている。 車輪が回転するように、グルグルグルと回り続けるのが「輪廻」である。 インド人は、そのような恐ろしい輪廻の世界を考えた。 解脱、輪廻からの脱出〉
中国人や日本人は、インドから仏教を学びながら、その背後にある「輪廻の恐ろしさ」は学ばなかったようである。中国人も日本人も、心のどこかで「輪廻」というものをチョットした福音のように考えているらしい。 つまり、輪廻というものを{もう一回人生をやり直せる}ことだと考えて、それを期待しているのではないだろうか。 言うなれば、シシュフォスの最初の心境である。 シシュフォスは、もう一度この地上に帰ってきたいと考えた。 だから彼は、一計を巡らせたのである。 中国人や日本人の考える輪廻は、このような希望の再生である。 でも、それは違うのである。 それは、本当の輪廻ではない! 本当の輪廻───インド人の考える輪廻は、シシュフォスの永劫の刑罰である。 真の意味での、死がなくなった絶対の輪廻である。 中国人や日本人には、そのようなインド的絶望の輪廻が分からない。 そのため、私たちの仏教理解は、どこか甘さが残ってしまう。 真に仏教を理解するには、この「輪廻」という観念を徹底的に究明する必要がありそうだ。 「輪廻」が分かった時、本当の意味で仏教が分かった事になるのだろう。 出発点における仏教の課題は、まさにこの「輪廻」の克服であった。 |