お盆の由来

お釈迦さまには、沢山のお弟子がいました。その内でも、特に優れたお弟子が十人いましたが、その中に目連という方がいました。何処にいても世界中の出来事を見たり、聞いたり、他人の心を見通すことが出来る不思議な力を持っていましたので、神通第一と称えられていました。
目連は、お釈迦さまが主に活動されたマガダ国の首都、ラージャガハ(王舎城)の近く、クリタという村の裕福な家に生まれました。一人息子であったので、両親の寵愛を一身に受けて育ちました。幼少の頃から聡明で、ひとり林の中で考え事をめぐらすのが好きな物静かな子供でありました。隣村の舎利弗とは無二の親友で、ある時、二人は合い携えて出家し、当時の有名な修行者の一人であったサンジャヤの弟子となりました。舎利弗は、後に智慧第一と称えられた十大弟子の一人です。まもなく二人は、二五〇人の弟子を持つまでになりましたが、ある時、お釈迦さまの弟子の一人が托鉢する姿に出会います。余りにも出会った修行者の気高い姿に驚いた二人は、すぐに二五〇人の弟子と共にお釈迦さまの弟子となったのです。
ある日のこと、目連は亡き父母の恩に報いようと思い、神通力をもって見ますと、父は幸いに天上界に生まれていましたが、母は餓鬼道に堕ちて全身骨と皮の痩せ衰えた哀れな姿になっていたのです。驚き悲しんだ目連は、すぐに御飯を鉢に盛って供養しました。母は、喜んでた食べようとしましたが、たちまち御飯が火炎となって食べることが出来ません。目連は大声で泣いて悲しみ、救いをお釈迦さまに求めました。お釈迦さまは、静かに説かれました。
『目連よ。汝の母の罪は余りにも深く、それに比べて汝の力は余りにも弱い。汝一人だけの力では、何ともすることは出来ない。しかし、幸いにも僧自恣(そうじし)の日が近い。沢山のご馳走を諸仏にお供えして、七世父母のために苦を払い、楽を与えて下さるように回向を頼みなさい。多くの僧が心から唱える回向の功徳は広大無限であるから、救われるであろう』。
お釈迦さまから、亡き母の苦しみを取り除く儀式作法を教わった目連は、その日の来るのを待って教えられた通りに供養し、報恩追善の誠を述べました。餓鬼道にあった亡き母が救われた事は、言うまでもありません。お盆は、正式には盂蘭盆と言います。先の話は、「仏説盂蘭盆経」という経典に説かれているお話です。盂蘭盆は、目連の亡き母が逆さまに吊されて苦しんでいる様《倒懸(とうけん)》を訳した言葉です。日本に伝わってから、お盆と略されて言うようになりました。その歴史は古く、推古天皇の時代(六〇六)から営まれたようで、次第に寺院や一般家庭で行われるようになったのです。