自灯明、法灯明

 二月は釈尊が他界された月、涅槃会の月である。
 伝道托鉢の旅を続けながら、死期の近いことを告げられた時、弟子の阿難から「師を失った後は、何を頼りに生きていけばよいのでしょうか」という悲痛な問いに対して、釈尊は語っておられる。
 最後の説法ともいう「自灯明、法灯明」の教えである。

 『誰でも、必ず別れなければならぬ時がくる。
 だから、人は自らを灯明(光)とし自らを拠り所にして、他の人を拠り所とせず、法(教え)を灯明にし法を拠り所として、他のものを拠り所とせずに生きなさい(励みなさい)』と。

 何と、厳しい教えであることか。
 灯明とし拠り所とすることのできる自分とは、そんなに価値があるのだろうか。
 一人の人間に、拠り所と出来るものがあるのだろうか。
 法・正しい教え・いわゆる真理という灯明を拠り所として、それを求め、それに従い、それに目覚めた自分なら話は分かるが………。
 まず、法・真理が、自分の身体を貫いている事を知らなければならないのだろう。
 それは、私たちにも仏になれる種を一人一人が持って生まれ、生かされている事を覚らなければならないことを意味している。
 さて、歪んだ文明の暴走が続く現世の環境はどうだろう。
 とても、まともな自分自身を育てることが困難な時代と言えるのではないか。
 ルールも知恵もない。
 まさに無法の時代である。
 過剰に氾濫する情報と、人間の行動を細かく規制する管理社会の進行。
 日に日に技術は革新され、情報の伝達手段は加速度的に変化膨張していく。
 本来、科学の進歩は人間の必要に応じて、その要求される方向に進んでいくものの筈である。
 でも、今日のそれは利潤の追求を潤滑油にして、科学技術そのものが次々と新しいものを産み出している。

 そのため、人間が持っている感覚やいろいろな能力を狂わせ圧迫しつつある。
 その証拠に、これほど情報があふれた中で、どれほど多くの人々が悪どい商法にダマされて泣いていることか。
 新聞などに載るそれなどは、氷山の一角に過ぎない。
 人がまともに生きる情報はどうなっているのだろうか。
 コンピュータなどの機械や器具にリードされ、人間関係が冷たくなった職場に、決められた時間に運搬する交通機関に詰め込まれて黙々と通勤する朝夕の人の波。
 管理社会の冷たさは、学校教育の場にも急速に蔓延している。
 中学高校の生徒を縛る規則のことや、教師の体罰、校内暴力、尊い人権を認めぬ教育の場は深刻である。
 貿易黒字を中心に、富める国日本に対する海外からの風当たりは厳しいのに、国内の財政はサラ金地獄というワケの分からぬ政治の中で、経済社会の活力といえば自然を破壊し田畑を潰す開発ばかりに力が入るお国柄である。
 小さな税の取り立ては、ますます厳しい。
 これらは人間が作り出したものである。

 法を求め、法に従える───そんな自らを灯明にし拠り所とする。
 まず、自分自身を取り戻すという自覚が急務であろう。
 それは、間違った時代の流れに、科学技術の暴走に、拒絶反応を示すことから始めるべきなのであろうか。