お経のできるまで

 お釈迦さまが生きておられた時は、直接教えを聞くことが出来たのですが、八十歳でお釈迦さまが亡くなられると、もう聞くことが出来ません。
 では、どうやってお釈迦さまの教えが今も残っているかと云いますと、お釈迦さまの弟子の方々が、後の人たちのためにお釈迦さまから聞いた教えを編集して聖典として遺しておいてくれたオカゲなのです。
 つまり、聖典として遺しておけば、いつまでもお釈迦さまの教えが人々の役に立つと考えたからでした。
 お釈迦さまから聞いた教えと、日常生活における規則(ルール)とに分けて、一つ一つ確かめながら書き残したのです。
 だから、お経の最初には、必ずと言ってよいほど「如是我聞(にょぜがもん)=このように私は聞きました」という言葉が記されているのです。
 では、お経の数は一体どれくらいあるのかと云うと、「八万四千の法門=八万四千種の教えがある」と言われています。
 八万四千という数は大げさとしても、大変多くのお経があるのは事実です。
 では、なぜお釈迦さまは、そのように数多くの教えを説き遺されたのでしょうか。
 お釈迦さまが説かれた「仏教」という宗教の目的はたった一つ、『成仏』だけだったのに…。
 断るまでもないのですが、成仏―仏になる―ことは、「死ぬ事」ではありません。
 「仏イコール死人」でない事は、本紙読者はよくご存じだと思います。
 簡単に言えば、お釈迦さまは、すべての人にお釈迦さまのようになって欲しいと教えを説いたと言っても過言ではないでしょう。
 お釈迦さまは、悟りを開かれて仏と成られた訳ですから…。
 ところで、たった一つの目的(成仏)のために、なぜ多くの教えを説かれたのでしょうか。
 一つの目的を成すためには、一つの教えがあれば良い……とは思いませんか?
 問題は、そこなんです。
 お釈迦さまの方には問題はなかった。
 問題があったのは、私たちの方なんです。
 どうすれば仏に成れるか、という方法―最もその人にふさわしく、出来るだけ短期間に成仏できる方法や期間が、それぞれの人によって違っていたからです。
 お釈迦さまは、その人その人に最も適した言葉でもって――言い換えれば、お釈迦さまが悟られた内容を、その人にふさわしい形に噛み砕いて説いて下さったのです。
 これを「応病与薬=おうびょうよやく」とか「対機説法=たいきせっぽう」とか言います。
 説く相手の理解力・環境・状態といったものを見極めて、ちょうど医者が患者の病気に最も適した薬を与えるように、その人に最もふさわしい教えを説かれた訳です。
 これら、お釈迦さまの教えを集大成したものが、『経蔵=きょうぞう』と言われるものなのです。
 そして、お釈迦さまの回りに、その教えに従って修行する弟子の人たちが集まり、一つの集団・仏教教団というものが形成されてきます。
 「一緒に修行に励み、お釈迦さまのようになろう」という人たちの集まりです。
 多数の人たちが一ヶ所で生活するようになると、その集団をまとめるルールというものが必要になってきます。
 お釈迦さまは、そういった弟子たちの修行の妨げになる事を排除し、スムースに修行に専念できる環境作りに気を使われました。
 そのために数々の規則がお釈迦さまによって決められ、そのルールを破った者にはペナルティ(罰)が課せられた『律蔵=りつぞう』というものが作られました。
 当初は、この『経蔵』と『律蔵』とだけから出来ていた仏教聖典だったのです。
 後代になって、それぞれの時代の仏教学者によって、さまざまなお経に注釈が行われ、お経の解説書が書き著わされるようになりました。
 この、お経の注釈書・解説書の集まりを『論蔵=ろんぞう』と言い、これを先の二つと合わせて『三蔵=さんぞう』と言うようになりました。
 つまり、お釈迦さまの教えの集大成「経蔵」と、出家修行者が守るべき生活規則「律蔵」と、お釈迦さまの教えの注釈書「論蔵」です。
 その後、仏教はインドから中央アジアを通って中国にもたらされ、さらに朝鮮半島を経て六世紀の中頃には日本に伝わりました。
 その間に、仏教聖典は中国語に訳され、チベット語に訳され、パーリ語に訳され、サンスクリット語に訳され、多くの国の言葉に訳されています。
 そして、それぞれの国において仏教は独自の花を咲かせるのですが、千年近い年月の中で、またそれぞれの国々の仏教学者たちも、さらに多くの注釈書や解説書を書くようになり、これらも『論蔵』の中に含まれるようになりました。
 ですから、お経(三蔵)と言っても様々な内容のものがある訳です。
 蛇足ですが、日本の各仏教宗派においては、それら沢山のお経の中から、ほんのいくつかの経典を選んで根本聖典とし、その他、その宗派の歴史の中で著名な僧侶の著した書物・宗祖の著した書物・歴代の学僧の著した書物といったものも重要な聖典として用いているのです。