地獄の話

 昔から「地獄の沙汰も金次第」と言われてきました。
 けれども、本当の地獄はお金などでは到底どうする事もできない、厳しく恐ろしい所の筈です。
 少なくとも、地獄は私たちの心の中に刻々と生まれ作り出されており、世界中を見れば地獄とも言える事件が後を断ちません。
 こうした事に目を向けさせ、人々を教え導いて苦しみから救い出そうとするのが、地獄を説くお経であり、その内容を直接人々の目に訴え、反省を促そうとしているのが「地獄絵」ではないだろうか。
 亡者は、地獄の閻魔大王の前に連れて行かれると生前の善悪すべて細大もらさず記されている帳面と〃浄玻璃(じょうはり)の鏡」によって厳正に裁かれ、悪人は地獄に堕ちて行きます。
 では、その地獄とは一体どんな所でしょうか。
 それは人間世界のはるか下、途方もない距離を隔てた所にあると説かれています。
 八大地獄が有名ですが、その他の大小さまざまな地獄で亡者はそれぞれ厳しい刑罰を加えられるのです。
 その刑期は、天文学的数字で数えられます。
 とりわけ最下にある「阿鼻地獄」は、当然際立って恐ろしく、そこで与えられる苦痛は、他のすべての地獄の苦しみを合わせて一千倍にしても足らないほどだと言われています。
 ところで、ここに真逆さまになって堕ちていく者の条件に、精神的な罪が大きく取り上げられている事は見逃せません。
 考えてみると、人間は自分で心の中にいろいろな世界を作り出しては喜んだり悲しんだり怒っています。
 たまたま逆境に立ったり思わしくない事が続いて起こったりすると、心が乱れて物事の道理を冷静に考えられず、自分を省みる事もしないでその原因を他人のせいにし、激しく怒りに燃え悲嘆に落ち込んだ挙げ句、世を呪い人を呪う事にもなるのですが、こんな心こそ正に地獄と言えます。
 自分の気ままな欲望のままに生きていた一人の男が、長い旅の末に何と立派で素晴ら
しい町かと喜び勇んで、実は恐ろしい地獄の城門を入っていくという古い話がありますが、地獄に真逆さまに堕ちていく亡者の姿こそ、これと同じく物事の価値観を転倒させて考えがちな私たちへの警告と受け取れます。
 ある地獄では、高い木の上で麗しく装った美人が、あでやかな眼差しを亡者に投げかけます。
 亡者は胸をときめかせて夢中でその木を登るのです。
 すると木の葉がみるみる鋭い刀に変わって亡者の身体を切り裂きます。
 それでも亡者は懸命に頂上まで登りつめます。
 と、美人は何時の間にか木の下に立って手招きをしているのです。
 亡者は急いで降り始めます。
 瞬間、木の葉はカミソリのような鋭い刀になって一斉に上を向き、亡者の身体を切り裂きます。
 亡者はボロボロになりながらも下まで降りて行くのです。
 でも、美人はまたもや木の上です。
 亡者は慌ててまた登り始めます。
 これを果てしなく繰り返すのです。
 この美人は名誉・金銭・人間関係など、欲望の対象になるものならば何にでも置き換えて考えることが出来ますし、亡者は私たちの姿と見る事もできます。
 私たちの愚かな心、迷いの心、執着の心が作り出す世界をこれこそ地獄だと知った時、私たちは初めて真剣にそこから抜け出す方法を求めるようになるのではないでしょうか。
 その地獄が深ければ深いほど〃光〃への渇望も大きい事と思います。