釈尊当時の社会環境

 インドには、もともと居住していた原住民がいたが、紀元前1500年頃インダス河流域にアーリア人が移住してきた。
 その時、彼らは既に「バラモン」という宗教を持っていた。
 やがて彼らは東へ移動し、インドにおけるもう一つの大河であるガンジス河の中流域にやってきた。
 彼らは、この地に農耕生活を営むようになり、豊富な農産物を生産するようになった。
 人々の生活は豊かで交易が行われ、やがてガンジスの流域に幾つもの商業都市が出現する。
 経典にも出てくる都市、「舎衛城」や「王舎城」は有名である。
 この時期に、バラモン教とは関係ない一連の出家修行者たちがあった。
 彼らは、かなり多くいたらしく「サマナ」と呼ばれていた。
 漢字で書くと「沙門(しゃもん)」となる。
 沙門たちは、俗世界・家庭生活を捨てて(つまり出家して)生産活動は一切せず、一般人からの施し物によって生活していた。
 修行方法と言えば、主に断食などの自らの肉体を苛む「苦行」をしていた。
 そして、修行によって得た理法を人々に説いて導く者、誰一人の他人に説くこともなく生涯を過ごす者もいた。
 実は、仏教の開祖である釈尊も、そのような沙門の一人であった。
 釈尊が存命中には、このような沙門たちの中で六人が有名で、かつ勢力をもっていた。
 同じ沙門の出でありながら、彼らは仏教の立場から見て異端の説を説いていたので、六人の異端の思想家という意味で「六師外道」と仏教では呼んでいました。
 彼らの思想は、荒削りな分類を試みるならば、「生きている間の行為が死後にも影響を与えると認める」ものと「それを認めない」ものとの二つのグループに大別できます。
 彼らの中には、仏教と極めて近い関係にあるジャイナ教もありました。
 ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、釈尊よりも20歳ほど年長でしたが、彼が活動した地域は釈尊のそれとほぼ等しく、釈尊と彼が何処かですれ違ったであろう可能性は考えられます。
 しかし、ジャイナ教も仏教も、お互いに相手の事には口をつぐんでおり、真実は分か
りません。
 六師外道のうち現在も残っているのはジャイナ教のみで、他は消えてしまいました。
 仏教はやがて祖国インドでは殆ど滅んでしまったが、ジャイナ教はインドに存続しています。
 でも、仏教はインドの外に伝えられて世界宗教となり、一方のジャイナ教はインドに留まった反面、世界宗教とはならなかった