彼岸法話1992

 春と秋にお彼岸がある事は大抵の人が知っている。
 今の若い人たちには、春分と秋分の日でお休み程度の知識しか与えられていないかもしれないが、仏教者にとっては大切な日である。
 お中日をはさんで前後三日間、今の一週間をお彼岸としたのは、それなりの意味があった。
 お彼岸の趣旨から言えば、この一週間を休日にして静かに思惟(しい)をこらすべきだと思うのだが、まあ無理だろう
 へたに休みにすれば、どこかに遊びに出かけて疲れるだけのご時勢である。
 たまの家庭サービスも良いが、時間がたっぷりある時は、ご自身のことに気をかけてもらいたい。
 健康、技能習得、趣味堪能、公的奉仕、新知識の勉強、視野を広げる為の旅行…日頃できない事は遊びだけではないだろう。
 ようするに、いつもは出来ない事をやってみるのが有効な休日の使い方だと言うこと。
 中でも、いつも意識の外にある自分自身の事について考えるのがお彼岸の意味である。
 日頃忘れている「私」を探すのである。
 それには、自分自身をまず大事にすることから始めるべきである。
 自分自身を大事に出来ない人は、もちろん他の人を大事にする事など出来ない。
 とは言え、自分の事を気にかけるには、それなりの心構えと時間が必要である。
 「自分自身を大事にせよ」などと言うと、〃自分だけを大事〃にしてしまうのが一般だから…。
 だから、仕事や家事に追われて、日頃、自分自身を顧みることのない現代こそ、お彼岸のあり方を再考すべきだと思われる。
 お金や見栄、名誉や地位にばかり心を奪われ、一番大切に大事にしなければならないものを忘れてしまっている。
 いや、この娑婆に生きる以上は、それらも大切なものかもしれないが、最も大切大事にしなければならないものが「私」なのである。
 年に二週間ぐらい、自分自身の事に時間を使う事を惜しんでいてはもったいないものである。
 一年の間に、○の日とか○○週間とか決めて啓発を促す事が多い昨今、自分自身について大いに考えるべきだと思う。
 お彼岸という言葉がイヤなら、人間修道週間でも人間反省週間でもいい。
 手を休め、立ち止まって自分の事を考えて頂きたい。
 特に、三六五日の間、何かに追われてそれどころではない人にこそ必要なのだ。
 自分自身について考える・私を探した事がない人は、そうは言っても「お彼岸になったから私を探そう」としても一朝には出来ない。
 何をどうすれば私を探せるのか、その智慧(知恵)を持っていないからだ。
 智慧・知恵…知識は、今日勉強したからといって直ぐ身につくものではない。
 一夜漬けは、あくまで一夜漬けだ。
 ましてや自分自身を探そうと言うのであるから、一生が勉強であると言ってもいい。
 インスタント食品のように、お湯をかけてさあ何分…てな訳にはいかない。
 コツコツと積み上げて行くしかないのである。
 お彼岸の期間、いやそれにこだわる必要もないが…私を探し続けるのが仏道修行の目的であると言える。
 その過程を楽しむ事が出来れば、あなたは立派に仏教の教えを理解していると言ってもいい。
 今の若い世代の人々は、高速道路でアクセルをめいいっぱい踏み込んだ車のようで危なっかしい。
 周りの景色も見えず、ただ目の前の狭い視野だけしか見ていないようなものだ。
 仕事にしても、販売を増やすのに懸命で、会社のために頑張っているのか、自分の為に一生懸命なのか、消費者のためにやっているのか分からなくなっている。
 「人間は万物の霊長だ」と人間は言う。
 地球上の動植物と比べて、考える力を持っているからだそうで、人間は考える葦(あし)であるという言葉もあるぐらいだ。
 人間から考える力を奪ってしまえば、単なる弱い動物でしかない。
 走る速さも遅く力も弱いので、ライオンやトラの格好のエサに成り下がってしまう。
 せっかく与えられている考える力、それを使わなくては。
 そういった観点に立ち、お彼岸というものを考えてみれば、六波羅蜜の教えもまた現代に生きるのではないかと思うのである。