彼岸法話1994

 昼と夜の長さが同じになり、また、寒さと暑さの中間でもある春と秋の中日。
 今で言う春分・秋分を「彼岸」と呼んで、先祖供養の日とする習慣は、平安時代から始まって今日にいたっています。
 もともと、彼岸というのは、字を見ても分かるように向こう岸という意味です。
 まだまだ未熟で醜く、悪がはびこり迷いと苦悩が渦巻くこの地と、清浄で無垢な美しく豊かな世界を彼岸と言っています。
 難しい言葉ですと、この地を娑婆と言い、彼岸は別名で仏の世界・浄土とも言います。
 私たちのこの地(現実)と理想の世界(仏の世界)を隔てているのは、煩悩という大河です。
 その煩悩の大河をわたって理想の世界へ渡る、その到達点の名称が本当の彼岸なのである。
 「この世は仮で虚しく、ただ仏の世界のみが真実である」
という言葉があります。
 この世を此岸といい、真実の世界へ向かう者が目標とする所が彼岸という地なのである。
 この汚れた娑婆世界を捨てて、真なる仏の世界・浄土へ向けて出発する───など凡人の頭では、なかなか考えられない。
 ましてや、煩悩の大河を渡りきり、彼岸へ到達して人間として完成することが、この短い一生で果たせるなどとは思いもよらない。
 だから、この娑婆世界と縁が尽きた───つまり、一つの生涯を閉じて亡くなった者の霊が、偉大な仏の力によって彼岸へ導かれ、到達させてもらって安らかな往生ができるようにと、私たちは一心に祈願する。
 それが、仏事という先祖供養と言えなくもない。
 仏教辞典の「彼岸」の項には、
 『………仏教の重要な行事で、平安時代の頃から行われ出した。
 その日は、太陽が東方に居られる薬師仏の眉間から出て、西方の阿弥陀仏の蓮の台へ沈む………』
とある。
 古来、仏教では東方浄土の薬師仏に送り出され、釈尊が教えを説かれた此岸・この世で彼岸への道を歩み、西方浄土の阿弥陀仏に迎えられて往生がかなうと云うことになっている。
 法隆寺の金堂にみられるように、東の薬師仏、中央の釈迦仏、西の阿弥陀仏の三仏は、まさにそれを一堂にまつっている。
 太陽が、東の薬師仏の前から、対岸の阿弥陀仏の蓮台の中心へ向けて沈む形で拝むことの出来る日が、一年に二度ある。
 それが彼岸のお中日ということ。
 太陽の光が、その中心を橋渡しするように結ぶ日である。
 この日に先祖の供養、つまり墓参りすると良いという意味は分かります。
 でも、亡き先祖の霊を供養するための彼岸はそれとして、もう一つ重要なことは、現にこの娑婆世界で生きている自分の彼岸はどうなっているのだろうか。
 お釈迦さまは、彼岸への長い道のりを渡り切って仏になられた。
 しかし、それで終わった訳ではなく、八○歳までの生涯を人々のために生きられた。
 そして皆に、彼岸を目指す菩薩としての生き方を教えられた。
 だから、仏教というのは「どう生きるかを学び、実行すること」がむしろ中心と言える筈である。
 その菩薩としての基本的な六つの実践行が「六波羅蜜」と言われている。
一、布施行
 布施といっても、お坊さんに包むものがすべてではない。
 物の面でも心の面でも、人に施すことである。
 何よりも、喜びを施すことが大事であろう。
二、持戒行
 みんなで仲良くこの世を生きていくためには、ルールが必要である。
 人に危害を与えるようなルール無視は慎まなければならない。
 仏教の場合には、自分の修行にマイナスになることはやめる。
 また、人の修行の邪魔になることはしない事を前提としてさだめられている。
 交通規則などは、人の安全と同時に自分の安全も確保するために守らなければならないのである。
三、忍辱行
 自分の思い通りにならない時も、その苦痛に耐える。
 ガマンすることを忘れちゃあいけません。
四、精進行
 料理ではありません。
 怠けず、努力して本当の彼岸に向かって進むのである。
 ただ、注意したいのは「ガムシャラ」ではありません。
五、禅定行
 雑念を払い、心を鎮めて安定させること。
 精神統一の面もあるが、精神解放も大切である。
 ストレスのたまる現代にあっては、むしろ精神解放したい。
 力が入り過ぎている身体から、力を抜くことも大事である。
六、智慧行
 この苦悩多き娑婆世界にあって、何が善で何が悪かを見極める事の出来る正しい知恵を身につけなければならない。
 先の五つの行を根底から支えるのも、この智慧である。
 この六つの行を実践して行った時、此岸と彼岸の存在が分かってくるのではないだろうか。
 目先の目標ばかり追い、彼岸への道を逆行している現在の過ちに気付けるのではないか。
 例えば、廃棄物の始末もできない原子力に電力を簡単に頼り、安いだけで自給率を無視した農産物の大量輸入。
 長い長い時間をかけて今ある自然の環境を、目先の利益で破壊したり汚染したり。
 とにかく、囲碁や将棋で言う、二・三手先も読まない。
 ましてや、子や孫の代の未来さえ考えようとしない情けない風潮の中で、本当の彼岸を考えることは大切だと思う。