小手先

 唯物論というのがあります。
 この唯物論を『モノを至上だとする考えで、心など無視する思想』と単純に捉え、共産主義や社会主義を否定する立場から、
 「あの体制は唯物論だから………」
という場合が多く見られます。
 しかし、物質・利潤を錦の旗印に、モノを一番大事にしているのは資本主義に他なりません。
 「モノを至上だとする考え」という意味で唯物論という言葉を使うなら、資本主義の現状こそが、まさに唯物論だと言えましょう。
 唯物論である資本主義を肯定しつつ、社会主義・共産主義は唯物論だからダメ───と言っている事になる訳で、これは矛盾しています。
 『モノよりも心が大事だ』と言う時は、その辺のところを押さえた上でないと変な事になってしまいます。
 モノが大事にされて、心とか人間性が軽んじられてくるのは、機械文明の弊害ですが、それは日本だけ……仏教だけ……に限らず、世界各国であらゆる宗教宗派が、その害をこうむっています。
 機械文明に引っかき回され、モノにかき回され、都合のいい部分だけツマミ食いされて利用されている───というのが実情でしょう。
 しかも、金と権力が中心になっている時代では、反撃の糸口さえもナカナカ見つからない。
 権力を持ち、庶民を支配する人々がモノ事をやろうとする時には、狙い・真の意図というものがあり、それを実現するためには色々な手段を講じてくる。
 だから、相手の真の意図を探り、それに対抗していく必要が宗教にはあります。
 釈尊の基本的な教え・キリストの基本的な教え・これらは文明が今のようになるズッーと以前から長い長い歴史を経てきています。
 しかも、相当多くの国で実験・実践済みの一つの優れた思想です。
 だから、私たち仏教徒は釈尊の基本的な教えを押さえ、腹の中にしっかりと納めておかなければなりません。
 宗教とか思想、古今東西の相当長い歴史を、試練を経て残っているものを自分の内に持っているかどうか………。
 それが、人生観とか社会観を持っているかどうか───につながると思うのです。
 今の若い人に対する批判の一つとして、例えばある大学の教授が次のように言っています。
 『昔の学生は、もうちょっと面白かった。
 この頃の学生は、ちょっと本気になって難しい問題を出すと相手になろうとはしない。
 変に利口になっているから、分からぬことは真剣にならない。
 それなら、何か悟っているのかと思うと、そうでもない。
 少しも奥がない』
 まあ、若い人すべてがそうだとは言えませんが、確かに大勢としてそういう傾向にあるようです。
 人生観とか社会観をつかむよりも、むしろ、そういった事を考えず、基本的な思想とか宗教など持たないで、目の前に出てくる現象にどう対処するか────という小手先のうまさを身につけるのが、生き延びるに一番便利だ。
 そういう思想を持っているのではないか……とさえ思えます。
 しかし、これでは非常に弱い。
 対処していける間は良いが、小手先はあくまで小手先に過ぎず、自分の土性骨で対決しなければならなくなった時、太刀打ちできる筈がありません。
 たとえ今のところは小手先の技術で生きていけるとしても、いざ本当に生命を賭けてでも立ち向かわなければいけない事態が起こった時には、小手先で何とかしようとしても全然歯が立つワケがありません。
歯が立たない時、そこから逃避できればいいが、それでは解決にはなりませんし、一時的に逃避できても、いずれまた対決しなければならなくなる。
 最後の逃避として、この世から消えてなくなる事を選ぶ事にもなりかねないのです。
 第一、釈尊は逃避することは教えておられない。
 2500年の歴史を持つ仏教に学ぶことは多いと思うのだが………。