正義の叫び 1

 故:横山日省師の遺稿「正義の叫び」からの転載です。

 時は、文禄四年九月廿五日、日奥師は法華宗諌状を著して秀吉に献上したのであります。
 その中には、次のような事が述べられています。
 まず、人間として生まれ来た自分の幸福を喜ばれ、かつ、出家となって仏の有り難い教えに遇うことが出来、しかも聞き難き経王に仕え、民衆を善導する任にあたられる光栄を感謝されています。
 この大任を果たすには、まず国恩と仏恩の二つに報いる事から始めなければならない。
 国恩に報いるには正しい教え(正法)を宣伝し、仏恩に報いるには妙法を広めるにある。
 一大仏教を鑑みれば、法華経こそ日本国の民衆を救う大法であると述べられています。
 上行菩薩の化身・日蓮聖人は、不惜身命を以て法華経を世に広められた   という手本がある。
 法華経を世の中に広めるには、自分の命をかけられたのである。
 この度、秀吉公は大仏を建立された。
 その善根は前代にもなく、後代にも例がないであろう。
 すこぶるもって結構なことである。
 ならば、この時こそ、一代仏教の勝劣・浅深・正邪・曲直を聞き正す良い機会で御座る。
 にもかかわらず、邪法邪義を許すとは何事か。
 これでは、大仏建立にもその供養にも何等の功徳もなければ、意義もない。
 却って、ますます邪法邪義を増長させるばかりである。
 私のこの主張をお聞き下され、正法正義を御信用下されるならば、日蓮聖人が理想とされた世界をこの国土に実現し、貴公の身も幸福にして不老不死の齢を保たれるのみならず、天下泰平・人民鼓腹の治を見ることは、火を見るよりも明らかな事である。
    という内容の大論文を献ぜられたのであった。
 その後、日奥師は唯一人あらゆる迫害を受けるのであります。
 周囲は悉く邪法邪義の徒となり、日頃、法華経を口にし妙法を唱える日蓮宗の者までが獅子身中の虫となって反抗するに至ったのです。
 つまり四面楚歌、八方はすべて敵人となったのであります。
 日奥師はここに至って、不受不施運動を起こし、日蓮聖人の正義を堅持して、その教えを守らねばならない必要から、我が日蓮宗不受不施の宗派を興したのであります。
 講門派と云うのは、日蓮聖人の精神を汲んでその祖述をした人が日講師であるから、不受不施講門派と申します。
 すなわち、日蓮宗とは教えを広めた人、不受不施とはその主義精神、講門派とはその歴史の意味であります。
 その系統は、日蓮聖人・日朗上人、日像上人、大覚大僧正、朗源上人それより続いて、日実上人は京都本山の妙覚寺の開山。
 それから、日護上人・日賞上人………づ〜と参りまして、日典上人までは京都妙覚寺の貫主として大伽藍に座っておられました。
 しかし、秀吉の大仏供養を縁としてから以後は、その主義のため、清節を守って寺を捨て去り、天下を家として街頭に踊り出られ、草を枕に水を飲み、あらゆる迫害を受けつつも厳然として獅子吼を続けられたのである。
 住むに家もなく、食うに食なく………僧俗共に、この間は実に御難儀をされたのであった。
 法脈は、日習・日講と継承され、京都妙覚寺系は日珠上人より大阪高津(こうづ)の衆妙庵に移ったのである。
 外観は旅館で、その実、内部は本尊をお祀りしてあった。
 衆妙庵の自分には、天満の与力であった大塩平八郎が不受不施の熱心な信者であったので、その被護を受けて存続した。
 豊臣・徳川は、いずれも念仏宗の信者であったから、我らの主義を嫌い、見付け次第かたっ端から縛ってしまったのである。
 頃は、天保九年七月十九日。
 大阪高津の庵では、時の頭目、日寛・日照・日東の三上人が、折しも密かに折伏運動の協議をこらしていた。
 そこへ突然、数名の与力がドヤドヤと踏み込んできて、三上人をふん縛ってしまった。
 そして直ちに、大阪より篭に乗せて江戸に護送した。
 もちろん、法度を犯した大罪人ゆえに飲み食いは一切ない。
 箱根を越すまでに、大抵の者は倒れてしまう。
 そうなれば、どこかの山中に死体を放り出しておいて、篭は帰ってしまうのである。
 死んでしまえば、篭が軽くなる訳である。
 だから捕えられたら百年目、その日が命日となる。
 日寛・日照・日東の三上人の他にも、このような惨状に遇われた上人は沢山あるが、この三上人の命日が皆同じ年月日になっているのは、こういった理由からである。
 かく悲絶壮絶の迫害史を続けて現在に至り、日蓮聖人から連綿として継承してきている。