正義の叫び 2

 故:横山日省師の遺稿「正義の叫び」からの転載です。

 不受不施派の歴史には大小の様々な事件があります。
 中でも、大きな事件を挙げるとすれば次のようなものが挙げられるでしょう。
 まず、池上本門寺と身延山久遠寺の対論  いわゆる身池対論といわれる対決があります。
 不受派側の池上と受派側の身延の対決によって、ますます硬軟の二派に分かれるに至りました。
 その後も、文書による対論は絶えず往復しており、法戦は続けられたのでした。
 寛文法難(第四十三号に詳解)に際しては、あの日講上人が江戸幕府に守正護国章を上呈して最後の国家諌暁(〜かんぎょう)を遂行されたのも忘れてはなりません。
 日講上人は、不受不施禁制以後、流罪の身にありながらも日蓮聖人の大著述を啓蒙するために萬代亀鏡録を編纂されています。
 前者は、それまで曲がりなりにも一つの教団として法華宗があったものを、公然と二派に分派し社会的にもそれが認められた事。
 後者は、不受不施派が禁教となった大事件だった訳です。
 確かに、身延派は大きな団体です。
 しかし、すでに大仏事件の時に節を曲げ、義を折って失脚してしまっている。
 その時の京都本満寺の貫主・日重上人は、本圀寺での会議の議長であった。
 この会議は、「千僧供養に出仕するか否か」の協議であったが、今更らそのような事に憂み身をやつすのは、既に宗旨の本義に迷っているからである。
 その他の当時の僧たちも、ついでに清節を失ってしまった。
 一人、青年僧・日奥上人だけがその協議の外に立って出仕を拒み、その翌日から直ちに妙覚寺を出て、お上の咎め者になられたのであります。