教育現場でも時代や社会の変化と共に様々な問題が起こっている。
例えば、授業が非常に難しく分かり難い・校則が時代に合わない・余り先生の質が良くない・管理が厳しい とか色々である。
ところで天台宗の祖・伝教大師最澄は次のように語っている。
「私は生まれてから一度も荒々しい言葉を使ったことがないし、ムチを手にしたこともない。
私と同じ仏道を歩む者は童子(子供)を打ってはならない。
童子をかわいがってくれるなら、あなたは私にとって大恩人である。
努力せよ、努力せよ」
確かに最澄の言葉によるまでもなく、教育の基本に愛情というものがないと上手くいかないことは誰もが知っている。
それは動植物を育てる場合にも言い得ることが出来よう。
例えば、持ち主がその植物に合った水や肥料を充分に与え、丹精して育てるならば立派な花や実をつけるが、逆に水も肥料もロクに与えず粗末に扱うなら枯れたり花・実もつけないといった具合である。
犬や猫にしても、飼い主が愛情をもって育てるなら毛並みもよく、人なつっこくなるが、いじめたりすればその人を嫌い、場合には飼い主を咬むといった始末である。
そんなに簡単に言えないとしても、人の場合も親や先生が子供に愛情をもって接していけば、何事もなく健全に育っていくように思えるのだが。
某新聞に、ある保母さんの投稿が載っていたのを読みこんなお母さんに育てられた子供は一体どうなってしまうのか考えさせられてしまった。
二人の子を持つ母親として「今の若い母親は……」という言葉を聞くのは嫌なものですが、保母として働いていると、その嫌な言葉を思わず使いたくなる事があります。
今の子供たちは、愛情という過保護ではなく、権利の過保護の下に育てられているようですね。
「子供のためなら何でも我慢できる」という考え方ではなく、「子供のためなら何も我慢ができない」とでもいう考え方でしょう。
先日、保育園でこんな事がありました。
帰りの時間になり、母親が迎えに来たため子供を引渡しました、
するとその時、何と、その子のパンツに大物がたまっていたのです。
そのことに気付いた親は、強い口調で一言、「早く先生に替えてもらいなさい」。
保母が後始末をしている間、その親はジッと見ていただけでした。
(中略)
権利を主張し、何事も要領よく済ましていく親より、少々やぼったくても慈愛に満ちた親の方が、子供にとっては必要だと思うのですが、弱肉強食の時代に慈愛を期待する方が無理なのでしょうか。
登校拒否の子供や、権利を主張するだけの母親の話などを聞いたりすると、一体、どんな人間になる事が大切なのか どうすれば幸せにつながるのかと。
反対から言えば、どんな人間に育てることが大切なのか考えなければと思う。
最澄は次のように語っている。
「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」
である。
この言葉の意味するところは、仏教者なら悟りを求めようとする心。
親ならばどうしたら子供が幸せになれるかを求める心であり、商売人ならどうすればお客さんに喜んでもらえる商いが出来るかを考える心であり、先生なら生徒にどうすればよい教育を授けることが出来るかを考える心 そういう心をもって生きれば生活に必要なものは自然に満たされるという事である。
逆に、衣食そのものには決して道心というものはないとも教えている。
最澄の目指した世界は、道心をもって愛情をかけながら子供たちを育てましょう。
それが結局、道心をもった人が育ち、社会も時代も良いものとなりますよ というものでしょう。
私たち人間は色々なことを考え・悩み・苦しむ。
でも、私たちが心をもった生物である限り、子供を生み・育て、彼らを社会人として立派に自分の力で生きていけるようにしなければならない。
それが先達の基本的なあり方であろう。
そうでなければ、人類はやがて滅びてしまうかもしれない。
今も昔も結局、次の世代の人々を愛情をもって育て、道心のある人になってもらう事に尽きると思う。
法明界から転載