凡夫の知恵と彼岸の智慧

 ちょっとしたクイズを。
 牛乳の入った瓶が一本ある。
 そして、湯呑み茶わんが一つあり、兄弟が二人いる。
 この兄弟が、牛乳をうまく半分ずつにして飲むにはどうすればいいか。
 これが、クイズの問題である。
 普通の場合、これだと正確に半分に出来ない。
 しかし、クイズとして一つの正解が与えられている。
 それは、兄が牛乳を半分にするのである。
 牛乳瓶から湯呑みに移したり戻したりして、これで「半分」だと思えるまで分ける。
 言い換えれば、兄の方が「自分は牛乳瓶のほうをとっても、湯呑みのほうをとっても、どちらでも良い」と信じられるように分けるのである。
 そして、どちらを取るかの選択は弟にまかせる。
 そうするとうまく行くだろう。
 何故なら、兄はどちらでも良いと思っているのであり、弟は自分が取った方が良いと思っているからである。
 両方ともに不満はない。
 これが、クイズの正解である。
 しかしである、これで果たしてうまく行くだろうか。
 弟にすれば、確かに自分が選んで取った。
 けれども、それを飲みながら、横目で兄を見ながら、彼はきっとこう考える。
 (しまった!
  やはり、あちらの方が良かったんだ。
  お兄ちゃんは、いつでもずるいんだから。
  わざと僕に少ない方を取らせるようにしたんだ………)
 兄は、兄で、
 (しまった!
  どうも、あちらの方が多かったようだ)
と考えるに違いない。
 要するに、二人とも不満なのだ。
 実は、これが私たちが普通に持っている知恵である。
 別名、凡夫の知恵・此岸の知恵・娑婆の知恵という。
 これらの知恵は、時に「悪知恵」となり、あるいは「下種(げす)の後知恵」といって、肝心な時には役に立たずに後になってから(あの時、ああすれば良かった………)と出てくるものである。
 この凡夫の知恵に対して、仏教の説く智慧を般若の智慧・菩薩の智慧・仏の智慧・彼岸の智慧と言う。
 先程のクイズは、あくまでも凡夫の知恵によって解いたものである。
 それでは、本当の問題解決にはならない………と仏教では考えている。
 私たちは、問題を彼岸の智慧によって解かなければならないのである。
 では、彼岸の智慧とは、どのような智慧なのであろうか。
 端的に言えば、こだわりのない智慧だと言えよう。
 さっきのクイズを例にとるなら、凡夫は「多い・少ない」にこだわっている。
 「どちらが多いか?」と、多い少ないを差別し、多い方が良いとこだわっている。
 そんなこだわりがあっては、牛乳を飲んでもちっとも美味しくない。
 こだわりを捨てよ───というのが、般若心経の「空」の教えであり、こだわりのない智慧が「彼岸の智慧」である。