「どうにかしよう」という気持ちを捨て去ることで、消極的なマイナスイメージを色濃くもっている言葉である。
この言葉は仏教のものであるが、何と、こちらの方では最高のプラスイメージが与えられている。
「諦(たい)」は、「サッティヤ」など、〃真実〃を意味するインド語からの漢訳語である。
したがって、「諦める」は、『真実を明らかに知る』とか『悟る』という意味である。
真実を悟れば、「ああしよう」「こうしよう」としてアクセクする事もなく、何が起きてもジタバタする事がない。
こんな結構な事はないのだが、しょせん世俗の価値観は、その反対だという事である。
ただ、「魔」ともいう。
修行の妨げになるものの事をいう。
インドの古語などで、「マーラ」と云い、「死に至らしめるもの」を意味する。
修行をキチンと行えば解脱できるワケであるが、仏教に限らず、インドの古い文献では、解脱を別名「不死」ともいう。
解脱した人は、輪廻の輪を抜け出たのであるから、生まれ変わることがない。
という事は、もはや再び死ぬことはない、という事である。
したがって「不死」なのである。
だから、修行を妨げるものは、「不死に至らしめないもの」であるから、つまり「死に至らしめるもの」である。
伝説によると、お釈迦さんが悟りを目指して修行している時、悪魔のパーピーヤスが自分の三人の娘を使って盛んに誘惑した事になっている。
その娘の名は、パーリ語で〃アラティ、ラガー、タンハー〃と言う。
〃アラティ〃は嫌悪、〃ラガー〃は貪り、〃タンハー〃は渇愛を意味する。
つまり、この三人は、いずれも人間の本能とでも云うべき根本的な迷いを言い表わしているのである。
もちろん、お釈迦さんは、この悪魔一家の誘惑を軽く退けている。
どうも、悪魔と云うと、キリスト教でいう〃悪魔〃、つまり私たちの外側にいてチョッカイを出す、天使のなれの果てのようなものが頭に浮かんでくるが、「悪魔」という言葉の語源になっている仏教の悪魔とは、このように、人の心と体に深く染みついて、何がなんでも苦しみの世界に縛りつける、まるで麻薬のようなものであると言える。
悪魔の中で、少し面白いものとしては〃睡魔〃というのがある。
物欲や性欲を断ちきったお坊さんでも、これにはナカナカ勝てないようである。
今はもうない伝染病に、天然痘というのがあって、昔は大変おそれられた。
死亡率も高いが、たとえ治っても、発疹(はっしん)のあとが残り、顔などは月面のクレーターみたいになる。
このクレーターみたいなものを「あばた」と云い、「痘痕」という字が当てられている。
実は、この「あばた」、インドの古語の〃アルブダ〃がなまったものである。
「アルブダ」というのは、もとは、蛇とか、二ヵ月の胎児の形を意味するが、仏教ではさらに転じて、皮膚にできる水胞の事を指した。
そして、この言葉は、地獄の一つをも意味する。
仏教では「八熱地獄」と並んで「八寒地獄」というものを説く。
これは、上の方から段々と寒さが増えていく、酷寒の地獄のこと。
アルブダ地獄は、この一番上に位置し、寒さの程度も一番軽い。
しかし、寒いことに変わりはなく、この地獄にいると、全身に水胞(アルブダ)ができるという。
おそらく、鳥肌のキツイやつなのであろう。
そのために、アルブダ地獄と名付けられたのである。
これが、どこでどう「あばた」になったのか分からないが、二・三○○年前のヨーロッパの医者が得意になってラテン語を使ったのと同じように、どこかの知ったかぶりのお坊さんが、天然痘の後遺症を、「ふーむ、これはアルブダと申してのう…」とか何とか言ったのが始まりかも。
阿鼻地獄と叫喚地獄………どちらも八熱地獄の一つ。
転じて、「敵の無差別爆撃で首都はたちまち阿鼻叫喚のちまたに化した」というように、身の毛もよだつ惨状を形容する言葉となった。
辞書によっては、「阿鼻地獄で泣き叫ぶこと」を語源とするものもあるが、それは間違い。
ちなみに、阿鼻地獄と無間(むけん)地獄は同じものである。
今は、縦に人数分の線を引き、その線の間に適当に横線を入れるやり方になっているが、昔は、人数分の放射線を書いていた。
阿弥陀如来の頭の後にある光(後光)に似ているからそう言ったのである。
ちなみに、阿弥陀如来は、別名を「無量光如来」という。
「おびただしい光に満ちあふれた如来」という意味である。
「息の根をとめる」などと使用されるが、これが本当に仏教語だったかどうかは良く分からない。
ただ、「根」という言葉が、どうもクサイのである。
「根」は、インドの古語の「インドリア」の漢訳語で、読み方は〃こん〃。
知覚や行動を成立させる能力、または、そうしたものをつかさどる器官を意味する。
たとえば、視覚器官は眼根(げんこん)、聴覚器官は耳根(にこん)、男性の機能のもとは男根(なんこん)、女性の機能のもとは女根(にょこん)といった具合である。
そうしたものの中に、生命をつかさどる器官というものがあり、命根(みょうこん)と言ったとか。
昔の人たちは、生命と息とは切っても切り離せない、あるいは、生命とは息に他ならないと考えていた。
そこから、命根のことを分かりやすく「息の根」と呼んだのではなかろうか。
まあ、これは憶測に過ぎないが、そういう可能性もなきにしも非ずである
「彼とは以心伝心、口に出さなくてもチャーンと分かっちゃうんだから」などと、今ではテレパシーのようなニュアンスで用いられるが、もともとは禅宗の用語。
仏教の教えの神髄は、ただ口や書物によって伝えられるようなシロものではない。
心によって心に伝えられるものでなければ、それはとうてい伝えられるものではない---というのが禅宗の考え方。
ただ、この場合に重要なことは、伝える方の心も伝えられる方の心も、ちゃんと伝え、また伝えられるに値する心でなければならないことである。
という事は、ちょっと目には仏教の教えは、師から弟子に伝えられるのであるが、実際には、弟子が師と同じ高処(たかみ)にいなければ、教えは伝えられないという事になる。
師もまた誰かの弟子であったのだから、師の師、そのまた師とさかのぼっていくと、ついにはお釈迦さんにまでたどりつく。
お釈迦さんは「ブッダ」。
つまり、「さとった人」で仏陀と書く。
という事で、以心伝心は〃以仏伝仏〃、「さとった人によって、さとった人に伝える」とも言い換えられる。
まぁ、これは今の「以心伝心」の用法にも多少はなごりがあって、テレパス(テレパシーの持ち主)が互いに交信できる相手はテレパスに限られるのである。
ものすごく足が速いこと。
もともと韋駄天というのは、インドのシヴァ神の息子であり軍神スカンダである。
たいへん強い神さまで、それまでのどの神さまも手を焼いていた魔神アスラの軍勢を、たちどころに蹴散らしたと云われている。
仏教の伝説によればこのスカンダ、火葬にされたお釈迦さんの歯を足の速い羅刹(鬼)が奪って逃げた時、その羅刹を追いかけて、アッという間にとり返したという。
この伝説から、スカンダは足がモーレツに速いという事になり、仏教の守護神として祀られるようになったと云う事らしい。
「これは一大事!」などと用いられるが、これも、もともとは仏教語。
そもそもの始まりは、わが国で最も人気のある「法華経」の一節(方便品)に、「一大事因縁」とあるによる。
これは、お釈迦さんがこの世に現われた理由、つまり因縁のこと。
その理由とは、さとった偉大な人の智慧(ちえ)をもって世の人に教え、その智慧を示し、理解させ、智慧を獲得する方法を納得させることであり、これが「一大事」。
意味からすれば、「ただ一つの偉大な目的と事業」なのである。
また、法華経の話のスジからすると、そうしたお釈迦さんの教えを聞くこと自体、大変な事だということになる。
なぜなら、それはウドゥンバラ(いちじくの一種)の花が、三千年に一度咲くのを見るくらいにマレな事と同じようなことだから。
ということで、お釈迦さんの〃一大事〃は、お釈迦さんに接する人にとっても「一つの大ごと」だという事になる。
おそらく、「一大事」という漢訳語のイメージから、ここいらあたりの事情が加わって、発想の転換が生じたのであろう。
やがて、お釈迦さんにとって……というよりは、私たちにとって大変な事柄を「一大事」と呼ぶようになり、さらに一般に「大切なこと」を意味するようになったと思われる。
「大事」というのは、この「一大事」の〃一〃が抜けた言葉。
しかし、言葉というものは生き物みたいなもので、「一大事」と「大事」とでは、いつの間にか違ってきてしまった。
『体こそ「大事」でして、体を少しでもこわしたら、それこそ「一大事」です』というふうに使い分けられる。
「大事」と「一大事」を「大事ない」と云って入れ替えたら、それこそ「一大事」になりかねない。
何かを言ったりやったりすれば、必ずその結果が自分にもたらされる。
逆に、何かが起きたならば、それは、かつての自分の行いが原因になっている のである。
これは〃業〃という考えであり「自業自得」、つまり自分の行いの結果を受け取るのは自分に他ならず、決して他業自得とか自業他得とかではあり得ないとされた。
やがて、わが国に仏教が広まるにつれ、「因果」という言葉は少し宿命論の色合をおびてくる。
こんなツライ目に会っているというのも、もとを正せば前世での自分の行いが悪かったせいだ 今さらどうこうするワケにもいかないし あきらめるしかないんだが、しかしそれにしてもまあ、何でこう といったニュアンスが出てきたのである。
「いったい、何の因果でこうなったのかねぇ」というワケだ。
こうなると、「編集なんて、こんな因果な仕事からは早く足をあらいたいもんだ」というように、過去の自分の責任も宿命論も通り越して、「理不尽」の代名詞のような用法が出てくるは、時間の問題であった。
「親の因果が子に報い、可哀相なは、この娘でござーい」という口上があったが、これはどう考えてもムチャクチャで、いくら親でも他業自得という事になるワケで、これではいくらなんでもたまったものではない。
じいさんバアさん相手にお寺が発行する「寺報」のようなものだ というのは、もちろん冗談。
善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果がもたらされるという、自業自得の法則のこと。
わが国では、この法則が、民衆へのお説教の材料として大いに利用された。
「こんなアホなことやっとったら地獄に落ちるで」
「ウソついたら閻魔はんに舌を抜かれまっせぇ」
というのは道徳教育としても、たいへん便利だったのである。
ただ、こうしたレベルの因果応報の話に日本仏教のほとんどが熱中していたので、文明開化以来、〃仏教は迷信だ〃とか〃非科学的だ〃などという、考えてみれば実にくだらない非難に身をさらすハメにったのである。
もともとは、禅宗でよく用いられた言葉であった。
お坊さん、一般人を問わず、人を仏教の教えに導き入れることがもとの意味。
やがて、「引導を渡す」といって、お葬式の時にお経を唱えて、死んだ人を仏教の教えに導くことを意味するようになった。
戒名を死者につけるというのも、この考えに基づいている。
これがさらに転じて、「もうこれでオシマイだ、後はどう逆らってもしかたがない」と、あきらめをつけさせることを意味するようになった。
インドの古語「バヴァーグラ」の漢訳語。
「バヴァーグラ」は、〃バヴァ〃と〃アグラ〃の合成語。
「バヴァ」は、輪廻の世界をさまよい続ける生きとし生けるもののことで、「有」と漢訳される。
「アグラ」は先端、てっぺんの事で、漢訳されて「頂」。
あわせて「有頂」。
原語に「天」に相当する言葉はないが、これは〃デーヴァ〃の漢訳語で、神さまを意味する。
つまり、有頂天は、生きとし生けるもののテッペンにいる神さまのことである。
そこから、得意絶頂、鼻も高々といったふうの人を指して「有頂天」というふうになったのである。
それでは、「てっぺん」とは何処を指すのか。
これには、二つの説がある。
輪廻する生きとし生けるものの世界は、三つの層からできている。
最下層は「欲界(よくかい)」と云い、欲望をもつ動物やら人間やら神さまが住んでいる。
その上の層は「色界(しきかい)」と云い、欲望のまったくない形だけの生き物が住んでいる。
最上層は「無色界(むしきかい)」と云い、形のない、トントワケの分からない空々漠々とした生き物が住んでいる。
この三層を合わせて「三界(さんがい)」という。
さて、有頂天のいる所の第一の説によれば、無色界のてっぺんにいるという。
第二の説によれば、色界のてっぺんにいるという。
その根拠はもう一つよく分からないが、無色界に住むものは形がなく、ひたすら空々漠々としているので、そのてっぺんにいるというのも何ともとらえることが出来ない。
その点、色界のてっぺんにいるのなら、ちゃんと姿形がある。
だから、神さまとして考えやすい と、まぁ、こんな所かと思われる。
どちらが仏教本来の説であるべきなのか、にわかに判断しがたい。
が、ともかく、生きとし生けるものは三界にたむろしているのであるから、普通の感覚からすれば、三界のてっぺん、すなわち無色界のてっぺんにいる ということの方が相応しいように思われる。
天界地図を片手に、有頂天の住所を突き止め、たしかに有頂天さんにお目にかかったという人はいないようで、これ以上のことは分からない。
しかし、もしもそのような人がいたならば、前人未踏の成果をあげたことになるワケで、手のつけようのないほどの有頂天になったりして 。
法明界から転載