幸福と欲望

 人は、どんな時に「ボクは幸せだなぁ」と感じるのだろう。
 人が、幸せを感じる時は、「自分の欲望が満たされた時」である。
 ところが一般的には、そうは思っていないようだ。
 だが、これは事実なのである。
 ただ、〃欲望を満たす事は悪いこと〃という観念があるらしく、素直に「そうだ」と言える人は少ない。
 もっとも、自分の欲望を満たす事ばかりを考えて、その為に他の人が苦しんでも知らん顔の人間もいるし、積極的に他人を踏み台にしている外道もいる。
 人間の歴史を見ると、欲望を満たす為の歴史だったと言える。
 また、人の営みも、個人の些細な事から国の行き先を決める大事に至るまで、どう欲望を満たすかであったと思われる。
 仏教では、この欲望を無くす   という宗教と思っている人もいるけど、それは正確ではない。
 「欲望」は、国語辞典によれば「欲しいと思い込む」とある。
 何を欲するとするかは、個人さまざまだが、仏教では身分不相応の高望みを禁止している。
 今、自分が欲しているモノは、果たして本当に必要なものか良く考えなさいと云うワケだ。
 お釈迦さまだって、さとりを欲して大いに苦しまれた。
 私たちの欲は、お釈迦さまと比べれば低次元なもので比べる事自体、怒られそうだけど。
 欲が満たされ、自分が欲しいと思っていたものが手に入ると幸福感を味わう。
 でも、それは長続きしない。
 時間がたつと、手に入れたモノに対して不平不満が出てくる。
 あるいは、他人のものと比べて、今度はもっと大きな欲を起こすかもしれない。
 それが、凡夫の性(さが)である。
 その変な欲を抑える一つの手段として、仏教では布施の行が説かれた。
 布施をすれば「自分のものが減ってしまう」と思っている人は、与える事によって得られるものがある事を知らない人である。
 他人さまにモノが与えられる喜びを感じられない人は、まだまだ仏教の教えからは遠いと云えそうである。
 欲望の方向と大きさを間違うと、身を滅ぼす事は古来から云われている。
 日頃から、自分の欲するモノがどういうものか良く考えて行動するのも一つの修行と言えよう。