数珠の珠の数には様々ありますが、正式な数珠には、百八の珠があることになっています。
それより少ないものは簡略形式の数珠だと云うことになります。
しかしそれにしても、「百八」の根拠は、一体どこにあるのでしょうか。
仏教の教えでは、普通、煩悩が百八種類あるから、それを滅ぼすために、数珠の珠も百八あるのだ、と説明されます。
呪文・真言を数珠で回数を確かめながら百八回唱えれば、総ての煩悩がなくなるということで、なるほど、という気にさせられますが、余り自信はありません。
と云うのも、「煩悩」などを説かない他のインドの宗教も、百八の珠が付いた数珠を使うからです。
仏教の数珠をマネたんだろう、と考える人もいるかと思いますが、そう簡単にはいきません。
理由は次の通りです。
まず第一に、初めに数珠を考え出し、使い出したのが仏教であった、という証拠が今のところないからで、数珠の起源がハッキリしていないのです。
次に、一般のインドの人たちは、「百八」という数字を好みます。
お釈迦さんが登場するズット以前からインドにある哲学の文献を「百八ウパニシャッド」と云って尊重してきました。
また、インド人たちに人気があり、最高神のヴィシュヌの化身だとされる英雄ラーマには、百八の名前があるとされています。
他にもインドの人たちが百八という数字を好んで使用する事例があるそうです。
ですから、ひょっとしますと、初めにまず、「百八」という数字があり、それに基づいて数珠の珠は百八個と決められ、それとはまったく別のところで、煩悩の数は百八あると考えられるようになって、いつの間にか初めと終わりが結びついて、先の説になった、というのが真相かもしれません。
これとて怪しいですが、筋は通りそうです。
百八と云えば、大晦の「百八つの鐘」が有名です。
鐘を百八回鳴らすことで、百八つの煩悩を滅ぼすのだ、とされています。
それは、信ずることといたしましょう。