彼岸法話/仏道精進の週間

 「聞く時は、さこそと思う心地して忘れやすきは法の道かな」
 聞いている時はそうだそうだと思っていてもすぐに忘れるのが私たちではないでしょうか。
 昔の小話にこうゆうのがあります。

 横町によく物忘れをする小僧さんがいました。
 親方から、あぶらあげを買ってこいと言われ、早々表へ出ましたが、忘れないよう、あぶらあげあぶらあげ、と言って歩いていました。
 目の前に溝があったので、ポイと飛び越したのはよいのですが、用を忘れ、ポイポイといいながら歩いて行きました。

 店屋の前に来て、ハテと思案そうに立っていますと、「毎度ありいー。何に致しましょうか」と主人が出て来ました。
 小僧さんは、ポイポイを下さいと言ったので、主人は目を白黒させた。

という笑い話です。
 大事なお骨すら忘れる人があるのですから、人間この忘れやすき者といえましょうか。

 人間のふむべき法の道も、再三聞いて繰り返さねば忘れてしまいます。
 昔の人は、春秋の彼岸会を設けて“仏道精進の週間”とし、故人を供養し説教を再三聞き、繰り返し唱題修行をして、忘れを取りもどしてきました。

 人間は万物の霊長といわれ、本来清く美しいものであるはずなのですが、「欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘れる」であります。
 「灰吹きと金持ちはたまる程きたない。」と言われますが、人間は皆、物があるほどに物にとらわれて、きたなくなります。
 そうした塵に汚れた心をクリーニングする時が春秋彼岸会なのです。

 日本人は彼岸を「暑さ寒さも彼岸まで」と、時季的にとらえ、春秋彼岸会の団子も、春は牡丹の花にちなんで牡丹餅(ボタモチ)、秋は萩の花にちなみ、お萩(ハギ)と美しい名をつけました。
 昔は女の人がよく前掛けの下へ隠して近所へもらっていただいていたようですが、物が充分ある今は、こんな美しい習慣も失われつつあり、かえって外国の日本人街で行われているようです。

 彼岸という言葉はインドにもあり、法華経にも「到於彼岸」と見えています。
 インドは河が多く、時々洪水にみまわれ、こちら(此岸)は荒れているのに、向こう(彼岸)は安全の処と思われたのでしょう。
 また、ドイツの詩人、カール・ブッセも、

 山のあなたの空とおく 幸いすむと人のいう
 ああわれ人と尋ねゆきて 涙さしぐみ帰り来ぬ
 山のあなたのなお遠く 幸いすむと人のいう

とうたっていますが、山のあなたの幸いとは、彼岸のことなのでしょう。
 彼岸は梵語のパーラミターを漢訳し到彼岸といい、迷いの岸より悟りの岸へ到ることで、波羅密とも、度ともいいます。

 この彼岸を両彼岸会とし聞法の場、修行の時としたところに日本人の立派さがあると言えましょう。
 仏教は仏になる教えで、日蓮聖人も、仏になる大切さを、

 自身仏にならずしては父母をだにも救い難し

と教えられています。

 それが今日、死人を祀ることのみと思い違いをしている人が多く、他人まかせ、自己の修行は棚上げとは反省したいものです。
 「仏」になる実践行とは「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六つであります。
 その一つ一つを簡単に申しますと…

 『布施行』
 お布施とは、お坊さんに出すもの(それも一部分ですが)と勘違いされていますが、私たちが物にとらわれている心を除く実践なのです。
 人にタダめぐんでやるのではなく、自分の為にするのですから、もらって戴くのです。

 布施は相手に感謝を求めるのではなく、させて戴いたこちらが感謝するのです。
 そんな馬鹿なという人があるかもしれませんが、そうしたことによって物へのとらわれが捨てられるのです。

 『持戒行』
 私たちはナカナカ僅かな戒も守れません。
 その守れなかったことを懺悔、反省するのです。
 自分も弱い人間、許されているのだから、他人も弱い人間と許してゆくのです。

 近頃は「許しません」が多いのですが、日本人本来のものではありません。

 『忍辱行』
 いろんな迷惑を忍んでいかなければならぬ、ということです。

 『精進行』
 努力することが善いとされる、つまり正しい努力です。
 「信心は細谷川の丸木橋油断すればあぶなかりけり」であります。

 『禅定行』
 私たちの心は、日常雑事にかきまわされて乱れていますがそれを静めること。精神統一とでもいいましょうか。唱題三昧に入ることです。

 『智慧行』
 前の五つの行はバラバラにあるのではなく、真実の智慧があって行えるのです。