寺報コラムから

適者生存

 『生きている』というのと『息をしている』とは語源が同じだといわれる。
 この世の生きとし生けるものは呼吸している。
 そして、多様な動植物は大自然の中で生き延びるために生存競争し、弱肉強食の世界を作っていると思われているが…。

 シマウマよりライオンが強く、シマウマは必ず食われるかというと、そうではない。
 確かに、シマウマはライオンより弱い生き物ではあるが。
 生物の個体レベルでいえば全肉全食であり、最終的にすべての個体は食われてしまう。
 つまり、多少の差こそあれ、寿命がきて死ぬのだ。

 種のレベルでは『適者生存』が自然界のルールであり、環境に適応したものが生き残る。
 それは、「個体」が生き残るという意味ではなく、その種が生き残るという意味である。
 言葉を換えれば、遺伝子が次世代に受け継がれる・継がれているということである。
 その適応の仕方は、あらゆる形態の生物が存在するように、適応さえしていれば、強い弱い等は関係がない。
 どのように適応するかは、その生物の生存戦略次第だ。

 人間の生存戦略は、高度に機能的な社会を作り、個では長期の生存が不可能な弱い者をも生き延びさせることで、子孫繁栄の可能性を最大化することであった。
 文明を発達させ、前時代では死ぬしかなかった個体を生かすことが出来るように社会を進化させてきたといえる。
 アマゾンのジャングルに社会のない生の姿で、一人放置されたら生き延びられる現代人はいない。
 そういう意味では、人間は全員弱者なのだ。
 その弱者たる人間が集まって社会を形成し、出来るだけ多くの弱者が生き延びることができるようにしたのが人間の生存戦略である。
 その社会には、闘争も協働も、競争も共栄も存在する。
 どちらが人間社会の本質であるかと問われれば、協働・共栄と答えるしかない。
 何故なら、どれだけ闘争が活発化し激しくなろうとも、最後は協働しないと人間は生き延びられないからだ。
 我々人類全員が弱者であり、その弱者である個々を生かすのが人間・人類がとってきた生存戦略なのだ。

寺報201号から転載